鹿児島県薩摩川内市入来町は、武家屋敷や多くの史跡が残る歴史ある街並みだ。そんな入来町の片隅に「マダガスカル温泉」はある。
知る人ぞ知る温泉で、そのちょっと独特な外観から入るのには勇気がいる。しかし、平成30年12月18日をもって営業を終了してしまった。
温泉法では温泉施設が営業をする条件として「番台を置くこと」を義務付けているが、オーナーが逝去してこの条件を満たせなくなったからだ。
しかし、一体「マダガスカル温泉」とはどのような温泉だったのだろう?
武家屋敷の街に遠い異国の「マダガスカル」という言葉が奇妙に響く。「オーナーがマダガスカルの人と結婚したからこの名前だ」との噂を聞いたことはあった。私は営業していたころに2度訪問したが、いずれもオーナーに会えず直接真実を確かめられなかった。お会いしたいと思っていたので残念だ。
それでも、今からでも知れることがあるかもしれない。いくつかの問い合わせを経てオーナーの息子さんと連絡が取れた。「うちの温泉に来てくださった方ですか? 親父にめちゃくちゃ話しかけられませんでした? 若い人が来ると張り切って話すんですよ」と突然の電話にも気さくに応じてくださった。
故人は話好きな方だったらしい。マダガスカル温泉とオーナーについて話を聞きたいこと、できれば記事にしたいことを伝えると快諾してくださった。
閉鎖していたマダガスカル温泉を特別に開けてもらい、ここを作り上げた野村勝彦さんについて、息子さんから話を伺った。
セルフビルドの廃墟系温泉!?
――独特な温泉施設ですよね。温泉手前のこのお部屋に勝彦さんが住んでいらしたのですか? 冷蔵庫やお布団がありますが…。
「家は隣にあります。でも帰るのが面倒でこちらにも冷蔵庫や布団を置いたみたいですね。この施設は親父が全部自分で建てたんです。よく「廃墟」とか、SNSでも「廃墟系温泉」とか言われていますね…。」
廃墟系などとよく言われているが、この温泉が開業したのは平成18年。実はそんなに古くない。
「親父はずっと温泉が掘りたかったみたいで、20年近くかけて取り組んでいました。だから、マダガスカル温泉ができたと聞いたときは『ついに温泉が掘れたのか。よかったな』と思いました」
――どうして勝彦さんはここで温泉を掘り始めたのでしょう?
「親父がいつから、どうして温泉を掘りたいと思っていたのかはわからないです。でも、『ここは絶対温泉が出るところだ』とずっと言っていました。親父は建築士で三菱重工に勤めていて、東京や大分、横浜と各地に転勤を繰り返していましたが、温泉を掘るために仕事を辞めて故郷である鹿児島に帰ってきたようです。僕が小学校に入る前のことでした」
野村勝彦さんは鹿児島県薩摩川内市出身。マダガスカル温泉がある敷地は、勝彦さんが生まれ育った実家だ。正確には隣が実家で、温泉を掘るために隣の土地も購入したようだ。
――薩摩川内市に戻ってきてすぐ温泉を掘り始めたのですか?
「そうみたいです。でも、帰ってきて取り組んだ1回目の掘削はうまくいかなかったようで。その後食べるためにうなぎやこいの養殖にチャレンジしていました。僕は末っ子でうなぎの出荷を楽しんで手伝っていましたが、上2人の姉ちゃんたちは嫌だったみたいですね。生活も大きく変わったし」
うなぎの養殖が軌道にのりはじめた矢先、中国の安いうなぎが入ってきて日本のうなぎ価格が下落。採算が取れなくなる。勝彦さんは一級建築士の資格を活かして、出稼ぎにでるように。
「なにかの仕事で一週間くらいいないのがしょっちゅうでした。その頃は母とも別居や離婚、そしてまた結婚するというのを繰り返していて…。正確な回数はわかりませんが、離れたりくっついたりしていました。でも最終的には離婚しました。父の母、つまり僕から見たおばあちゃんが隣に住んでいたので、僕はそこでご飯を食べさせてもらったり、作り方を教えてもらったりしていました。中学生くらいになると、大抵のものは自分で作れるようになりました」
その後、大輔さんは東京に進学。地元を離れた。
「鹿児島での暮らしは正直貧しかったです。僕は東京で就職した後こちらに戻ってきましたが、姉2人は地元を出て絶対に帰ってきませんでした。」
――出稼ぎとはいえ、一級建築士の資格を持っていらっしゃいましたよね。それでも生活は厳しかったのでしょうか。
「そうやって稼いだお金を、土地買ったり温泉掘ったり思いのままにつぎ込んじゃうわけで…」
いつの間にかJICA職員に。ダム建設に従事
東京の短大に進学し、学生生活を送っていた大輔さん。ある日突然フランスから勝彦さんが事故にあったとの連絡が入る。
「その時は、JICAの職員としてケニアでダム建設に従事していたらしく、そこで事故にあってフランスの病院に運び込まれたということでした。頭がい骨骨折で、本人はその時の記憶がほぼなかったです。ちなみにこれは親父が亡くなった後にわかったことですが、パスポートをパラパラめくっていたら、JICA職員としてインド、パキスタン、ケニアと行っていたことがわかりました」
大怪我の後勝彦さんは東京に帰国。大輔さんが病院に連れて行ったそうだ。この時の腫瘍がのちの勝彦さんの死因となる。シャワーを浴びて、浴室から出た時その寒暖差で腫瘍が破裂したらしい。
再婚。マダガスカルを経て帰国。
大怪我の後、ケニア戻った勝彦さん。次の任地はマダガスカルだった。このマダガスカルという国が勝彦さんをすっかり魅了する。
「電気もテレビもガスもない。でも一日中歌っているような場所で、それが最高なんだと親父が言っていました」
マダガスカルに行く前にケニアの土木事務所で通訳として働いていたファンザさんと再婚した。マダガスカルが故郷であるファンザさんが「自分も連れて行って欲しい」と頼んだのがきっかけだそう。そこからずっと連れ添うことになる。
――その後、ずっとマダガスカルで生活されていたんですか?
「僕も正確なことはわからないのですが、親父とファンザが一緒に日本で暮らしていた時期もありました。ちょうど僕が社会人になったころで確か平成6年だったかと。当時の薩摩川内市は今よりもずっと外国の人が珍しい土地柄だったからファンザは大変だったんじゃないかな」
ファンザさんの話せる言語はフランス語。日本語は片言で、聞き取れたとしても自分の思いを的確に伝えるのは難しかったようだ。
「親父はまた出稼ぎで留守しがちだったから苦労したと思います。ファンザはやっぱり帰りたくなったみたいで、5年薩摩川内市で暮らした後マダガスカルに戻りました。親父はその後日本とマダガスカルを行ったり来たりしていました」
勝彦さんは、ファンザさんが日本語を覚えてこちらの暮らしになじんだら、医療系の学校に行って勉強したらいいと勧めていたそうだ。
「僕も去年親父の遺骨を受け取りにマダガスカルへ行ったので、親父が何を考えていたのかなんとなくわかります。マダガスカルは出生率がよくなくて、小さな子どもが亡くなっています。親父は村にせめて助産師か看護師がいればと思っていたようです」
その後勝彦さんは、ファンザさんの親戚のマダガスカルの子の中で、勉強が好きな子を日本に呼んで「医療の勉強をさせてあげたい」という夢があったが、ビザや書類の関係で結局叶わなかった。
――元々勝彦さんは「地元鹿児島で温泉を掘りたい」という夢を抱いていたわけですよね。それが、マダガスカルのことばかり考えるようになった。一体何がそこまで勝彦さんを魅了したのでしょう?
「親父は典型的な九州男児といった感じで、楽器が好きなんですけど一人でもくもくとむすっと演奏している感じの人でした。決してみんなでワイワイ盛り上がる人ではない。それが、マダガスカルでは様子が違ったみたいで。遺品の中に現地で交流した日本人からの手紙が残っていたんですけど、それには『裸で踊られていてすごい日本人がいるんだなと感心しました』なんて書いてあってびっくりしました! 僕はそんなダンスするとか、人と仲良くしているのがまったく想像つかない。でもマダガスカルでは素の自分を解放できたのかもね。それは親父よかったねと思いました」
「マダガスカル温泉」実は正式名称「愛の泉」だった!
マダガスカルと日本の往復生活を続けていた勝彦さんは、温泉の夢もあきらめていなかった。平成18年、とうとう掘削に成功した。
「気がついたら『温泉やっている』と言われて、えー!と驚きました。でもついに掘れたのか、よかったなと思いました。何年もかけていたので」
温泉の掘削に成功したら源泉名、つまり温泉の名前を付けることになるのだが、それが実は「愛の泉」だというから驚く。本当は「マダガスカル温泉」と名付けたかったらしいが、何かの規定に引っ掛かりダメだったそう。そこで、マダガスカルへの愛をこめて「愛の泉」にしたそうだ。一般的(といっても一部の温泉好きか地元民)には「マダガスカル温泉」の名で知られているが、これは実は通称なのだ。
いわゆる “九州男児”な雰囲気だったと称される勝彦さん、それが「愛」という言葉を使うことにちょっとした新鮮さを感じる。
温泉は日帰り入浴のみ。大人100円。かなり安い値段設定だが、これで源泉かけ流しだ。泉質は単純温泉。肌ざわりの優しいお湯で、美肌成分であるメタケイ酸豊富。泉質のよさに加えて独特の雰囲気からディープなファンも多かった。
「人を呼ぼうとグアバやコーヒーの木を植えていました。『観察日記じゃないんだから、植えたからって毎日見に来る人なんていないよ(笑)』と言ったのですが、『植えたら人が来るよ』と親父は真剣に言っていましたね。夜温泉を切ると冷えちゃうので、寒冷地用に改良した植物を探してほしいとしょっちゅう頼まれました」
――我が道を行く感じですね。
「お姉ちゃんたちは大変だったみたいです。僕は末っ子で比較的苦労がなかったのかも。親父はいろいろと問題のある人でした。例えば、普通子どもの小さいころのものってある程度実家に残っているはずだと思うのですが、僕ら3人が家を出た後にほとんど焼かれてしまいました。だから写真はほとんど残っていません。お酒を飲む人だったから、飲んで感情が高まったときにそういうことをしたみたいです」
しかし、遺品整理をしているときに、大輔さんが見つけた一冊のノート。これにだけは写真が残されていた。
「おそらく、たまたま残っていたのを後から見つけてこうやって貼ったのかなぁと。これを見つけた時は感極まるものがありました。最初は墓に入れてあげようかと思っていたけれど、せっかくだからこのノートは取っておくことにしました」
今後の「マダガスカル温泉」
冒頭にも記載したが、温泉施設が営業をする条件「番台を置くこと」が満たせなくなったのでマダガスカル温泉は現在閉鎖されている。今後の再開の予定は未定。
「番台を配置すれば営業はできますが賃金的に無理ですね。入浴料は一人100円で、大体一日2,000円の売り上げ。よくて月に6万円くらいの収入です。そこに必要経費で電気代、施設の修理とかにお金がかかる。事業としては成り立たないですよね。親父はリタイアしていて年金収入もあったからできたのだと思います」
今後この施設をどうすべきか、現在進行形で模索中だ。
オーナーの高齢化や逝去などで、温泉施設が廃業になるケースは多い。少子高齢化が進む現代の日本で避けられない流れだ。だから、「マダガスカル温泉」というひとつの温泉が閉鎖になることは、決して珍しいことではない。しかし、掘削失敗にもめげずにチャレンジを続け、勝彦さんがやっと完成させた温泉がわずか12年という短い間しか営業できなかったことには一抹の寂しさを感じた。
勝彦さんはクセが強く家族に対する態度や金銭面など、決してほめられない部分も多くあったことを聞いた。しかし、よくも悪くも正直に生きてきた印象を受けた。家族に負担を掛けながらも温泉掘削にチャレンジし、マダガスカルでは自由に歌い踊り、人生を懸命かつ自由に生きてきた勝彦さんの様子には一種の爽快さを覚えずにはいられない。