鹿児島フリーライターのブログ

横田ちえのブログです。

夢破れても筆折らず 生涯ツルを描き続けた孤高の画家・宮上松岳の絵に魅了されて

熊本との県境に位置する鹿児島県出水市は、日本最大のツルの渡来地として知られている。その出水で、ツルを描き続けた画家がいる。宮上松岳さん(1914-1988)だ。


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毎年10月中旬から12月にかけて、はるかシベリアから出水までやってきたツルは、翌年3月頃まで越冬する。長い果て旅路の果てに羽根を休め、エサをついばみダンスをするその姿は、出水の冬の風物詩である。


私が松岳さんの絵に初めて出会ったのは、出水市の山深い場所にある大庭園「東雲の里」だ。園主の宮上誠さんは、看板と陶芸の仕事をしながら46歳の時に山を購入。「ここに最高に美しい庭園を作ろう」と20年以上の歳月をかけて開墾し、花や木を植え、石畳を敷き、園内に蕎麦屋や陶芸窯を設けて、一大庭園を築き上げてきた。


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▲初夏には約10万本のアジサイが山を彩る。「東雲の里」は日本各地のみならず海外からも人が訪れる出水市の観光名所だ


そんな「東雲の里」園内にある蕎麦店の片隅に、『出水ところどころ』と題された古い画集があった。


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何気なくページをめくってみると、紫尾山や牧場など出水の素朴な風景が美しく流麗な筆づかいで描かれていた。私は情感あふれる、郷愁をさそうような絵に心惹かれた。そこはかとなく寂しさが漂うのも心に残る……。聞けば、園主・誠さんの亡き父、宮上松岳(本名:松市)さんの自費出版だという。


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「親父は無口で不愛想。人と朗らかに話しているところなんて見たことがない。そんな人を寄せ付けない性格もあってか、描いても描いてもあまり絵を見に来る人はいなくて、晩年は創作意欲が失せてしまっているように見えました。やっぱしなぁ、人が見に来てくれたり買いに来てくれたりするような、意欲が湧くようなことがなければ、作家はダメなんですよ」


画集最後のページを開くと美術展での数々の受賞歴が記されてあるが、画家として広く世に出ていくことは叶わなかったようだ。筆一本で生きる道は厳しく収入は看板製作だったという。


いったい松岳さんはどのような人生を歩んできたのだろうか? 私は、強く人を惹きつける絵を描く力がありながらも、画家として報われない運命を辿ったひとりの人物のことが強く気になってしまった。


人と馴れ合わない孤高の画家のイメージが浮かんだ。しかし、残された絵や文章に目を通し、親族に話を聞いて取材を続けるにつれ、私の中の松岳さん像が揺らぎ、無彩色だったその姿は、次第に色を帯び、陰影が深まっていった。


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大画伯たらんと青雲の志を抱いて

私の少年期は貧困で、修学旅行にも行かれない時代であった。しかし、向学心は人一倍強く、番頭、土工、牛乳配達、氷配達等様々な仕事をやり、NHKドラマおしんの少女物語よりひどいものであった。勉強の出来ないところには永居せず次の土地へ転出しつつ上る。昔は職を選ばなかったら仕事にありつけた。熊本、福岡、連絡船で関門を渡り岡山、姫路、大阪、名古屋、東京等。大画伯たらんと青雲の志をいだいて。  ―『出水ところどころ』より


松岳さんは画家を目指して歩んだ道のりを一切語らなかった。「とにかくしゃべらん人でな」と誠さん。しかし、画集や文化誌への寄稿でいくつか自分のことを書き残している。そこには、夢いっぱいに郷里を後にして、苦労しながらも新しい世界へ飛び込んでいった少年のみずみずしい高揚感が表れている。


焼けつくようなアスファルトの上を歩いて氷を運び、得意先の冷蔵庫に収めた。午前中いっぱいで氷配達を終えると、午後からはスケッチブック片手に街をぶらつく。百貨店や呉服屋のウインドーから着想を得て着物の図案を描いて、それを織物屋に売って下宿代を稼いでいた。


貧困の中でも、若き松岳さんは身一つ、筆一本で力強く世の中を渡り歩いた。


漂泊の少年時代を経て18を過ぎた頃、大阪で南画家の大家である矢野橋村の書生になる。矢野橋村が校長を務める大阪美術学校にも通い始め、画家としての道の第一歩をいよいよ踏み出し、絵の道に邁進できるかと思われた。しかしそんな松岳さんの思いとは裏腹に、戦争の暗い影が忍び寄っていく。


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二十歳の徴兵時期を迎えたので、居留届なく検査は帰郷、出水小学校の一室で甲種合格のらく印を押された。入隊までは数カ月の間があったので米ノ津で店員をしていた。初志挫折。現役二年、支那事変二年半、対戦と続く。終戦。  ―『出水ところどころ』より


掴みかけた夢は儚く消えた。色鮮やかだった世界は戦争で黒く塗りつぶされた。まるですべては幻だったかのように。


運命を変えるはずだった一通の手紙

こんこんとした戦後の世相の中で食わねばならない。筆で生きるには……。  ―『出水ところどころ』より


戦火は松岳さんの左足のひざに直径4センチの傷跡を残した。復員後すぐに矢野橋村に手紙を出し、再び書生になりたい旨を知らせたが、待てど暮らせど返事は来なかった。白黒の似顔絵描きをして働くうちに、シノメさんとお見合いをして結婚が決まる。松岳さんは初婚、戦争で夫を亡くしたシノメさんは再婚で、亡き夫との間の一人息子がいた。


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結婚の日取りも決まったある日、掃除のために普段は締め切っていた雨戸を開けると封筒が落ちた。郵便配員が差し込んだものを、家族の誰もが気づかなかったのだろう。配達から大分日数が経っていたが、矢野橋村からの便りで「門下生が一人不足しているからすぐにいらっしゃい」と書いてあった。

結婚をふり捨てて出掛ける勇気もなくチャンスを失して残念。今でもその事は心のこりである。こうして米ノ津に住み着いてしまった。あの時一通の手紙を配達当時見ていたら私の人生も変わっていたかも知れない。 ー『出水文化』(1970.11発行)より 


郷土史家の田島秀隆さんは、鹿児島市で開催された広告展(野外広告美術コンクール)で松岳さんの展示を見ている。多くの展示物の中にひときわ目を引く作品があり、それが松岳さんの絵だったという。いつも群を抜く入選作だった。松岳さんの画集『群鶴百態』の序文にこう寄せている。

専門の画家としての修養をされたなら、どれ程の成長を見られた事かと惜しまれてならない。それでも国際美術展のフランス・ニース大賞展入賞など、国際的にも着々とその地歩を築いて来られた。  ―『群鶴百態』より


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▲松岳さんの看板絵


矢野橋村の書生となり、大阪でひたすら絵に打ち込んだ日々、この時間があともう少し続いたのなら……、便りに早く気がついていたら……。この世に「もしも」はないが、存分に才能を伸ばす時間や環境があったならと思わずにはいられない。


郷里の風景に美しさを見出して

仕事で出水のあっちこっちに出かけると広いなあとつくづく思う。上場高原、ここのお茶は特にうまい。芭蕉の山々、展望では矢筈・紫尾の両山。積水工場の先に出水養鶏所がある。ここから見る北は特に広さを感じさせる。  ―『出水文化』(1967.9.発行)より


結婚後、息子(誠さん)と娘が生まれる。しばらくすると、長男は戦死したシノメさんの亡き夫の母からぜひにと乞われて、引き取られていった。松岳さんは水俣太陽映画館で看板を描く職を得たのち、昭和24年独立して看板店を設立した。


家族がおり、生活があって、画作にのみ邁進することはできなかったけれど、看板屋の仕事でリアカーに荷物をのせてあちこちを奔走しながら、松岳さんは出水の風景に美しさを見出していった。仕事の合間に絵を描き続けた。


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▲『紫尾の夕映』 今仰ぎ観る無窮の大地を、青空に映えて夕日に染む


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▲『名古港展望』 清風と緑を展望の東光山、ここから見る出水平野八代海は人々の心に風光明美の趣をあたえて、わが心に忘れていた野生をゆさぶる


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▲『福之江海岸』 あの松並木を誇った頃の並木も今はあとかたもなく消えた。海水浴場として永年親しまれたが、これも消えた


日常の延長線上にある出水のあたり前の風景を、詩情豊かに描いている。絵には文章が添えられたものが多く、心象を反映させた言葉に松岳さんの感性が光る。絵からは、人々の温もりや時代の移り変わり、それに付随するさまざまな感情までが浮かび上がってくるようだ。


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▲『雪の仁王橋』 たまたま積もった雪の早朝。新聞少年自転車をこぐ後方の山は東光山


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▲『五月のころ』  ここに男子あり五月のぼり。矢筈山を背景にあそこにもここにも晴れやかにおよぐ庶民のまつり


私は、松岳さんの絵と文章が、郷里の風景の捉え方が好きだと思った。


空想や幻夢ではない、生きた鶴の佇まい


風景と合わせて、最も多く描いたのは出水に飛来するツルの姿だ。


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▲『声風』


寒風を裂いて鶴の鳴き声が響く様を描いた松岳さんの代表作。独自の冴え冴えとした色調からは、冬の出水平野の透き通るような空気感が伝わってくる。


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松岳さんのツルの絵を収録した画集『群鶴百態』を出版した村田書店店主は、丹念な写生から出発した松岳さんの絵を高く評価している。

そこには空想や幻夢ではなく生きた鶴の佇まいがあり飛翔が感じられるのである。一つ一つの姿態をつぶさに観察し、一瞬の微動すらも捉えて離さない画家の研ぎ澄まされた目がこの様な多種多様の鶴を生み出すのである  ―『群鶴百態』より


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檻の中の鳥ではなく自然の摂理だけに頼って生きる鶴だからこそ、その静も動も真実の姿であろう。そしてその自然は出水であり、宮上氏も鳥達と同様に出水の自然に導かれ、鶴が愛してくれるこの郷土を愛し、この郷土故に筆を採るのである。  ―『群鶴百態』より


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夢を託して玉を磨く


松岳さんは、地元の人々から舞台の背景絵や文化誌への挿絵を頼まれればほとんど断らず、無償で引き受けていた。しかし、一部では絵はタダで描いてもらえて当たり前、感謝さえ言われないこともあったようだ。


無報酬であることは決して厭わなかったが、頼んだ人からお礼すら言われないことへの不信感、貸した絵を返してくれない不義理な人物への憤りを書き残している。一方で、会社の解体工事に伴い以前寄贈した絵を返しに来てくれた人や自分の絵を認めてくれた人への深い感謝の念も綴っている。


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数々の賞に応募し着実に画家としての評価を上げていた。日展や二科一陽展はもとより、フランスニース国際展やオーストリアウィーン国際展での受賞歴があり、現代の名工として鹿児島県知事表彰も受けた。昭和53年の美術年鑑では、一号4万円の評価額だ。一号はハガキ一枚のサイズ。つまり10号の絵を描いたら40万円になるはずである。


しかし、絵が売れることはほとんどなかった。


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どの時代、どの地でも、画家が才能を認められてその道で生きていくのは厳しいが、まわりに同じような画家や作家もいなかった出水の地で、孤独はさらに深まる。


妻のシノメさんは、独立して収入の少なかった頃から松岳さんを支えたが、絵の理解者ではなかった。「いつか海外にスケッチに行ってみたい」と夢を語る松岳さんに、「ゼン(銭)もなかとに大きなこと言いなさんな」と諫めている。

私は私なりに夢がある。その内どこかの人が画を2,3枚買ってくれるよ。そしたら百万円くらいの銭はできるよ。そんな夢を託して玉を磨く。実現せずともよい。それが私の生きがいだ。

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地域の歴史を振り返る絵を描いて街頭展なども行った。


開催された数々の絵画展の記録からは、周囲に理解されにくい環境でも、ひたむきに画作に励んだ画家の孤独と情熱が見えてきた。


親父の絵はどこにあるのか?


けれども息子である誠さんの、画家としての松岳さんに対する評価は、決して高くはない。


看板屋の仕事を手伝うようになり、創作意欲に従って陶芸を始めて、自分の感性を育むにつれ「親父の絵はとても上手だけど、それ以上のものがない」と感じるようになったと言う。


「絵は上手やったど。油絵も水墨画も似顔絵もなんでもきれいに描く。でも強烈な個性がない。親父によく言いよったとです。『親父の絵はどこにあるのか?』と。人の心に残る絵を描いている人は、一目見てその人だってわかる個性がある。やっぱり画家なら自分の絵を追求しなきゃいかんやんか。画家は自分の個性を見つけるのにしのぎを削っている」


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「『俺は好きに絵を描いて本望だ』って言っとった。でも年を取ると親父は絵を描かなくなった。老後は土手の草を払ったり、花を植えたりするばかり。人が来て褒めてくれたり、買ってくれたりすることで、刺激を受けるようなことがなんもなかったからなあ。やっぱり画家は人から認めてもらって創作意欲を掻き立てることが大事なんだと思う。そのためには見に来てもらえるような強烈な個性がないと」


松岳さんに厳しい目を向ける誠さん。それは絵に夢を託しながらも、決して広く世に出ていくことのできなかった父親を反面教師にしなくてはいけないと思うからだと言う。


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果たして松岳さんの絵に個性はないのだろうか? 見る人によってその評価は異なるのだろう。


私には絵の素養がないけれど、独特の情感あふれる絵だと感じた。出水のささやかな風景の中に輝くものを見出して、自分の感性で郷里を捉えた素晴らしい絵だと思う。人が暮らす気配やツルの躍動感が伝わってくる。


「お父さん、お母さんには内緒やっど」


孫の里香さんもまた、誠さんとは違った視点を持つ。


「父は祖父の絵を『個性がない』と言いますが、それは二人の作家としてのタイプが違うからだと思います。祖父はものすごく真面目で。例えば、円を描くにしても父は感性に従って大胆に描くタイプだとしたら、祖父は何かで計ってきっちり円を描く人なんだと思います」


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▲出水のツルを描いた看板絵。


「確かに父の言う通り、ぱっと見て興味を惹く絵とは少し違いますが、私は祖父の絵が好きです。認めてくれている人もいて、『もったいないから世に出しましょう』と東京の出版社の方が熱心に説得に通ってくれて、鶴の絵を集めた画集『群鶴百態』が出版されました。けれども本人は『わからんやつに持っていてほしくない』と、結局画集を自分で買い占めてしまっていました。それが自信のなさなのか、作家としてのプライドなのかは私にはわかりませんが……」


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「私は大のじいちゃん子でした。口数の少ない人でしたが、私が祖父のアトリエで絵に興味を示すと『なんでん描け』と、キャンバスでも画材でも何でも使って好きに書いていいと。そして『父ちゃんと母ちゃんには内緒やっど』と、親が買ってくれないような駄菓子をこっそり買ってきて渡してくれました。私はじいちゃんが大好きでした」


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▲松岳さんが描いた幼き日の里香さん。自宅にずっと大切に飾ってきた。


数々の絵を、小学校や文化施設に自主的に寄贈することもあった。それは人づきあいがさほど得意ではない松岳さんにできる、人との交流の手段であり、感情表現だったのだろう。


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▲自主企画した「絵で見る新町50年史展」。地域の変遷を看板絵で伝えた


「不器用だったんでしょうね、祖父は。立ち回りが上手くなくて、それは画家として成功するには良くなかったのかもしれませんが、周囲にあまり認められなくても出水の街やツルを愛し描き続けた祖父のことを、私は愛しく思います」


小さな美術館を残したい


誰よりも松岳さんの作家としての姿勢に厳しい誠さんは、また誰よりも同じ作家として松岳さんに共感を示す。現在、松岳さんの残された作品を展示する小さな美術館を建設中だ。


「小さくてもいいからなんか残してやりたいと思って。親を思う気持ちっていう以上に、作家として認められたいって気持ちがわかるから」


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▲大庭園「東雲の里」の一角にある納屋を改修して、宮上松岳ギャラリーを開設予定。


松岳さんの絵は、果たして訪れる人々にどんな印象を残すのだろうか? 小さな美術館が完成したら、ぜひ自分の目で確かめて欲しい。順調にいけば年明け(2021年)2、3月頃には完成だ。


現在、出水市へのツルの飛来数は1万羽を超え、それはさまざまな地域の問題を内包する。農作物を荒らされず共存できるようにはじめた餌付けは、さらなるツルの渡来数増加につながり、伝染病発生のリスクもはらんでいる。だから出水は美しいツルの渡来地とシンプルに礼讃できる状況ではない。


けれども、この地で絵に夢を託し、ツルを描き続けた孤高の画家がいることは、ささやかでいいから誰かが覚えていて欲しいと願わずにはいられない。

大画伯たらんと志した夢は棒にふったけれど、耐乏生活し乍ら筆に生きたことは一貫性があるのでマアイイさ。筆に謝し5年前、せまき我が庭に筆塚を建立してまつる。わがしょうがいは 筆にたくして生きる道。と刻む  ―『出水ところどころ』より


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(取材・執筆 横田ちえ)