鹿児島フリーライターのブログ

横田ちえのブログです。

「離島の人、ジャンプ入手困難説」は本当か? 硫黄島まで行って聞いてみた

本記事は、2017年10月12日に「ネタりか」(運営元:ヤフー株式会社)で公開された記事を転載したものです。「ネタりか」が閉鎖されたため、許可を得てこちらにアップしました。


こんにちは、鹿児島ライターのちえです。
みなさんは、日本で一番読まれているマンガ雑誌が何かご存じですか?


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そう! 『週刊少年ジャンプ』ですよね!!
最盛期と比べて発行部数は落ちたものの、出版不況と言われる現在でも、1号あたり200万部近く売り上げています。


ジャンプと言えば、お笑い芸人「千鳥」の大悟さんが「子どもの頃、ジャンプを買うのに契約書を交わした」とテレビで話していました。


岡山県の離島・北木島(きたぎしま)育ちの大悟さん。島内でジャンプの購入者は限られており、無駄な仕入れを防ぐためにお店側が購入の確約をする契約書を渡してきたそうです。「来週も買ってもらえないと、余ってしまって困るから」ということですね……。


そこで思いました。


他の離島でも、同じようなエピソードを持つ人がいるのでは?


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周囲を海に囲まれた離島。千鳥の大悟さん以外にも、ジャンプを手に入れるのに苦労した人がいるはず。
というわけで今回は、離島出身の人に聞いてみました!

ジャンプ世代の大山さんに聞いてみた


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1955年生まれ、鹿児島県の硫黄島出身の大山さん。現在は鹿児島市在住ですが、仕事で硫黄島へ行き来しているそう。マンガに夢中になった少年時代は、ちょうどジャンプの黎明期!


――子どもの頃、どうやってジャンプを手に入れていましたか?


鹿児島市に住んでいる親戚のお姉さんが、読み終わったジャンプをまとめて段ボールに入れて送ってくれていたよ。雑貨屋は島に4軒あったけど、生活に必要なものや食料が少しあるだけで、マンガや雑誌なんて置いてないからね!


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▲子どもの頃の大山さん


――どんなマンガが好きでしたか?


当時、ジャンプより先に創刊されたマガジンやサンデーが王道の少年マンガだったけど、ジャンプには『ハレンチ学園』という当時思春期だった自分にはとても気になるマンガが連載されていてね(笑)。『男一匹ガキ大将』も好きだったなぁ。


――どのように島に届くのですか?


月6回くらい島に船が来るので、その日は港で待ち構えていました。荷物が届くと自分たちで港に取りに行かないといけないから。港が整備されていなかった昔は、港の中まで船が入れなくてね。


――えっ!? じゃあ、どうやって受け取るんですか?


少し離れた場所に停めて、艀(はしけ)という小舟で渡すんですよ。小舟から運ばれた荷物が砂浜に並べられたのを見て「この箱かな!? あの箱かな!?」って目を輝かせてたな。届いてない時はすごくがっかりして。届いていたら夢中で読んだ。友だち同士で回し読みもしたよ。


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▲港の様子。海中から湧き出した温泉が海に流れ込んで、黄色や茶色に染まる


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▲ゆったりと時間の流れる島の日常風景


――当時の大山さんにとって、ジャンプとはどんな存在でしたか?


ジャンプを読んで「海の向こうにはジャンプのマンガに出てくるような風景があるのかも」なんて想像してたよ。島は小さな限られた世界だからね。高校進学で島を出るまで、本当に楽しみにジャンプを読んでたなぁ。(※硫黄島には高校がないため、ほとんどの子どもが15歳で一度島を出る)


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▲高台から眺めた集落の様子。この集落に島のほとんどの人が住んでいる


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硫黄島東海岸


大山さんの少年時代から数十年の歳月が流れましたが、今の硫黄島の子どもたちも、ジャンプの入手に苦労しているのでしょうか。
ということで、実際に硫黄島まで行って聞いてきました!


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硫黄島は鹿児島の港からフェリーで約4時間。周囲約19km程度の小さな離島です。

今の硫黄島の子どもたちは、ジャンプを読むの?

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硫黄島の小学生たち。左からまさと君、がくと君、しおん君。


先に答えを言ってしまいますと、硫黄島には現在18人ほどの小学生がいますが、ジャンプを毎週読んでいる子は、なんと0人だそうです! ジャンプではなく、単行本などで好きなマンガを読むことが多いのだとか。


そして、スマホアプリで漫画を読む小学生も0人。最近はスマホアプリで漫画を読む人も増えていますが、小さな離島では、子どもに連絡手段としてスマホを持たせる必要もないため、都市部に比べて子どものスマホ普及率が低いようです。


――マンガはどこで買っていますか?


しおん君:硫黄島には売っていないので、鹿児島市に行った時に本屋さんで。大体みんなそうやって買っています。僕は『ONE PIECE』を集め始めたところ。まだ最初の方だけど、少しずつ楽しみに集めています。次は来年の1月に鹿児島市に行くから続きを買いたい!


がくと君:僕も鹿児島市に行った時に買ってる。自分で買ったのは『Splatoonスプラトゥーン)』のマンガ。あと、休みになると鹿児島市の友だちの家に泊まりに行くんですけど、そこは『ONE PIECE』が全巻そろっていて、読ませてくれるのでとても楽しみです!


まさと君:僕は『ドラえもん』とか『テレまんがヒーローズ』のマンガを持ってるよ。


――マンガを買うお金はどうしているの?


しおん君:夏にラジオ体操に行くとスタンプを押してもらえるんだけど、スタンプが貯まると図書カードがもらえるんです。みんなそれで好きな本やマンガを買ってるよ。


がくと君:僕は(美容室などに行かず)家で髪を切ってもらうと、親から500円もらえるので、それを貯めて買ってます。


硫黄島でジャンプや単行本のマンガが売られていないのは大山さんの頃から変わりなく、みんな鹿児島市に行く限られた機会を楽しみにしているようです。
ちなみに、島の多目的施設の図書室には、『ブラック・ジャック』や『火の鳥』などのマンガが置いてあり、子どもたちによく読まれているのだとか。


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持ってきたジャンプをみんなに見てもらいました。『ONE PIECE』と『銀魂』はみんな知っているみたいです。


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お土産で『ドラゴンボール』や『SLAM DUNK』の単行本を数冊持って行ったら、夢中で読んでくれました。集中力がスゴイ。


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近くにいた大人の方たちがジャンプを見ながら「今の連載作家さんは見覚えのない人ばかりだな~」と話していましたが……、


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「通販のページは変わってない!」と盛り上がりました。



中学生にも聞いてみた


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こちらは、硫黄島の男子中学生3人組。「休みの日はどんなふうに過ごすの?」と聞いてみると「ダラダラしています。あとは寝たり、YouTube見たり、プール行ったり」と中学生らしい回答。


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受験生のしゅんた君(写真一番右)は「前はスマホアプリでマンガを読んでいたけど、壊れちゃって……。でも受験だから新しいスマホは買いません!」とのこと。えらい!


好きなマンガについては、『進撃の巨人』や『テラフォーマーズ』など、ジャンプ以外のマンガが話題に上がりました。ほかには、「マンガよりもアニメ派」とか「好きなマンガがアニメ化されるとがっかりする!」という意見も。


大山さんの時代と比べて娯楽の選択肢が増えてきていますね。

本土であっても、田舎は入手しづらい!?


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ジャンプ歴40年の正木さん。「コンビニでジャンプの梱包が解かれるのを待って買ったことがある」と話すほどの筋金入りのジャンプ好き。子どもの頃は、離島ではなく、本土の田舎の集落に住んでいたそう。


正木さん:集落に1軒だけジャンプを仕入れてくれるお店があったんだけど、2冊しか仕入れてなくて……。発売日に買いに向かうと、前を歩いていた同じ集落のジャンプ好きの友だちに先に買われて売り切れちゃって(笑)。そういう時は一日遅れで学校の近くのもう少し大きなお店で買っていました。


続きの気になる連載マンガ。発売日に買えるかどうかって大きな問題ですよね。

硫黄島以外の離島出身者にも聞いてみた


屋久島出身・30代女性「屋久島はマンガの発売日が本土より遅くなります。ある時、本土の友だちと電話で話していたら、まだ読んでいないマンガのネタバレをされてイラっとしました(笑)」


口之島出身・60代男性「マンガは読んでいない。たまにテレビでアニメをやっていたけど、台風や故障で映らなくなっている間に最終回を迎えてしまったりした」


甑島(こしきしま)出身・40代男性「ジャンプやマガジンは手に入るから読んでいたけれど、単行本は手に入らなくて本土に行った時に買うのが楽しみだった」


やはり離島ならではの、マンガやアニメにまつわる悩みがあったようですね。


みなさんが子どもの頃はどうでしたか?
誰もが子ども時代、マンガに夢中になったエピソードがあるのではないでしょうか。


マンガの発売日に学校が終わるとそのまま本屋へ走ったり、少しだけ発売が早いコンビニを見つけて発売日の前日に見に行ったり……。
周りの人と「どんなマンガを買ってた?」「どうやって買ってた?」なんて話してみると、お互いの子ども時代が見えてくるようで楽しいかもしれませんね!


ライター:ちえ(@kirishimaonsen)
編集:ノオト

物語が伝わってくるような写真の数々『鹿児島古寺巡礼』

「日本の古寺の跡は本当に美しい」

これは『鹿児島古寺巡礼』のまえがきの中の一節だ。その言葉通り本の中に登場する古寺の跡は情感に満ちていて美しい。

歴史に詳しくない私は、この本が出た当初は敷居が高く感じられて手に取ることがなかった。けれども著者の川田さんから「写真集だと思って気楽にぱらぱらめくってもらえれば」と聞き、改めて見てみたらとても面白かったのだ。

歴史好きも楽しめるが、歴史に明るくない人間でも写真集として楽しめる。だから『鹿児島古寺巡礼』の魅力と面白さを私なりの視点で紹介したい。

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『鹿児島古寺巡礼』とは

『鹿児島古寺巡礼』は、京都で学生時代を過ごし、街並みや文化の美しさにカルチャーショックを受けた著者の川田達也さんが、京都近郊の古寺・古社を巡る中で、「鹿児島には古寺がない」と気づくところが起点となっている。

幕末から明治にかけての廃仏毀釈でかなりの寺院が消えた鹿児島。しかし、古寺の跡を巡ってみた川田さんはそこに残る豊かな石の文化に衝撃を受ける。石仏や石造物の形それぞれに表情があり、京都や奈良とは違う独自な雰囲気や生々しさがある。鹿児島の古寺跡は決して主張してこないけれど、何気なくそこにあったのだ。

しかし、鹿児島の古寺はほとんどの跡地が一般の墓地となっていてさらに時代の流れで忘れされつつある。そうした古寺の跡の美しさやそこに残る文化や歴史の足跡を求めて、鹿児島じゅうあちこちをライフワークのように巡ってきた川田さん。個人の並々ならぬ情熱から生まれたのがこの『鹿児島古寺巡礼』だ。本には島津本宗家及び重要家臣団二十三家の由緒跡を訪ねて、写真や解説、略系図を掲載している。

物語が伝わってくるような写真の数々

本の中の写真はすべて川田さんが撮影。この写真がとにかく美しく、これがこの本の大きな魅力になっている。私はこの写真を通して「古寺や墓標は美しい」ということを知った。抜けるような青空と静かな墓標の対比、苔に一面覆われた静かな石畳、刻んだ人の祈りが聞こえてくるような摩崖仏。どの写真も物語が伝わってくるようだ。

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本には掲載されていないが、静寂に包まれた雪景色の福昌寺の写真が美しかった。画像は川田さんブログ薩摩旧跡巡礼より引用

墓標が整然とまっすぐに並んでいる様子も美しい。この本の写真すべてが、垂直・水平のバランスがびしっと決まっていて、見ていて気持ちいいのだ。石造物は年月の経過で垂直でないものも多いので、歪みを感じさせないように撮影するのは結構な技術がいる。著者の対象への情熱や愛情が感じられる。

構図や撮影技術もさることながら、タイミングにも細心の注意を払っているそう。古寺・墓標を撮影する際に、湿気は大丈夫だけれど雨で濡れてしまっていると綺麗な写真が取れない。また、一瞬の光の変化で見え方が変わってしまうことがあるので、川田さんは常に一瞬一瞬を逃さないよう奮闘している。さらに、これはご本人から聞いた話だが、山奥に入るために登山装備まで揃えているらしい!

石造物を見ることで気づく人間の営み

本の中で印象的だったのは、墓標の戒名が明らかに人の手で削られていることを発見した箇所。故人の戒名までも徹底的に破壊する。鹿児島の廃仏毀釈の厳しさに驚かされ、当時の社会状況が偲ばれた。

また個人的に興味深かったのが、「山川石」が住持墓などに使われていること。山川石は鮮やかな黄色と縞模様が特徴的な指宿で採れる石で、島津家の墓にも使われている石として有名だが、住持の墓にも使われているのは意外だった。

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こちらも川田さんブログ薩摩旧跡巡礼より引用。住持墓の近くに合った名犬ふじのお墓。可愛がられていたのがよくわかる。こういうところを見逃さないのがすごい。

歴史に詳しくない私でも意外な発見があったので、歴史好きならなお面白いかもしれない。でも難しいことを抜きにして写真集としてとても美しいのでぜひ一度手に取ってみて欲しい。

www.nanpou.com


著者の川田達也さんのブログはこちら。

nicool0813.blog.fc2.com

歴史ある武家屋敷街にあった不思議な「マダガスカル温泉」。遠い異国に魅せられた野村さんの人生

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鹿児島県薩摩川内市入来町は、武家屋敷や多くの史跡が残る歴史ある街並みだ。そんな入来町の片隅に「マダガスカル温泉」はある。


知る人ぞ知る温泉で、そのちょっと独特な外観から入るのには勇気がいる。しかし、平成30年12月18日をもって営業を終了してしまった。


温泉法では温泉施設が営業をする条件として「番台を置くこと」を義務付けているが、オーナーが逝去してこの条件を満たせなくなったからだ。


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しかし、一体「マダガスカル温泉」とはどのような温泉だったのだろう?


武家屋敷の街に遠い異国の「マダガスカル」という言葉が奇妙に響く。「オーナーがマダガスカルの人と結婚したからこの名前だ」との噂を聞いたことはあった。私は営業していたころに2度訪問したが、いずれもオーナーに会えず直接真実を確かめられなかった。お会いしたいと思っていたので残念だ。


それでも、今からでも知れることがあるかもしれない。いくつかの問い合わせを経てオーナーの息子さんと連絡が取れた。「うちの温泉に来てくださった方ですか? 親父にめちゃくちゃ話しかけられませんでした? 若い人が来ると張り切って話すんですよ」と突然の電話にも気さくに応じてくださった。


故人は話好きな方だったらしい。マダガスカル温泉とオーナーについて話を聞きたいこと、できれば記事にしたいことを伝えると快諾してくださった。


閉鎖していたマダガスカル温泉を特別に開けてもらい、ここを作り上げた野村勝彦さんについて、息子さんから話を伺った。

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マダガスカル温泉に入って右手には管理人スペースがある。布団や冷蔵庫まで置いてあり、ここで番頭をしながら布団でごろごろしたり、本を読んだりしていたらしい。


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左手にはピアノが。管理人が演奏していたと聞く。すでに片付けられてしまったが、奥の本棚には本がぎっしり詰まっていた。


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温泉は源泉かけ流し。泉質がいいと評判だった。

セルフビルドの廃墟系温泉!?

――独特な温泉施設ですよね。温泉手前のこのお部屋に勝彦さんが住んでいらしたのですか? 冷蔵庫やお布団がありますが…。


「家は隣にあります。でも帰るのが面倒でこちらにも冷蔵庫や布団を置いたみたいですね。この施設は親父が全部自分で建てたんです。よく「廃墟」とか、SNSでも「廃墟系温泉」とか言われていますね…。」


廃墟系などとよく言われているが、この温泉が開業したのは平成18年。実はそんなに古くない。


「親父はずっと温泉が掘りたかったみたいで、20年近くかけて取り組んでいました。だから、マダガスカル温泉ができたと聞いたときは『ついに温泉が掘れたのか。よかったな』と思いました」


――どうして勝彦さんはここで温泉を掘り始めたのでしょう?


「親父がいつから、どうして温泉を掘りたいと思っていたのかはわからないです。でも、『ここは絶対温泉が出るところだ』とずっと言っていました。親父は建築士三菱重工に勤めていて、東京や大分、横浜と各地に転勤を繰り返していましたが、温泉を掘るために仕事を辞めて故郷である鹿児島に帰ってきたようです。僕が小学校に入る前のことでした」


野村勝彦さんは鹿児島県薩摩川内市出身。マダガスカル温泉がある敷地は、勝彦さんが生まれ育った実家だ。正確には隣が実家で、温泉を掘るために隣の土地も購入したようだ。


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施設裏手にも広い土地がある。


――薩摩川内市に戻ってきてすぐ温泉を掘り始めたのですか?


「そうみたいです。でも、帰ってきて取り組んだ1回目の掘削はうまくいかなかったようで。その後食べるためにうなぎやこいの養殖にチャレンジしていました。僕は末っ子でうなぎの出荷を楽しんで手伝っていましたが、上2人の姉ちゃんたちは嫌だったみたいですね。生活も大きく変わったし」


うなぎの養殖が軌道にのりはじめた矢先、中国の安いうなぎが入ってきて日本のうなぎ価格が下落。採算が取れなくなる。勝彦さんは一級建築士の資格を活かして、出稼ぎにでるように。


「なにかの仕事で一週間くらいいないのがしょっちゅうでした。その頃は母とも別居や離婚、そしてまた結婚するというのを繰り返していて…。正確な回数はわかりませんが、離れたりくっついたりしていました。でも最終的には離婚しました。父の母、つまり僕から見たおばあちゃんが隣に住んでいたので、僕はそこでご飯を食べさせてもらったり、作り方を教えてもらったりしていました。中学生くらいになると、大抵のものは自分で作れるようになりました」


その後、大輔さんは東京に進学。地元を離れた。


「鹿児島での暮らしは正直貧しかったです。僕は東京で就職した後こちらに戻ってきましたが、姉2人は地元を出て絶対に帰ってきませんでした。」


――出稼ぎとはいえ、一級建築士の資格を持っていらっしゃいましたよね。それでも生活は厳しかったのでしょうか。


「そうやって稼いだお金を、土地買ったり温泉掘ったり思いのままにつぎ込んじゃうわけで…」

いつの間にかJICA職員に。ダム建設に従事

東京の短大に進学し、学生生活を送っていた大輔さん。ある日突然フランスから勝彦さんが事故にあったとの連絡が入る。


「その時は、JICAの職員としてケニアでダム建設に従事していたらしく、そこで事故にあってフランスの病院に運び込まれたということでした。頭がい骨骨折で、本人はその時の記憶がほぼなかったです。ちなみにこれは親父が亡くなった後にわかったことですが、パスポートをパラパラめくっていたら、JICA職員としてインド、パキスタンケニアと行っていたことがわかりました」


大怪我の後勝彦さんは東京に帰国。大輔さんが病院に連れて行ったそうだ。この時の腫瘍がのちの勝彦さんの死因となる。シャワーを浴びて、浴室から出た時その寒暖差で腫瘍が破裂したらしい。

再婚。マダガスカルを経て帰国。

大怪我の後、ケニア戻った勝彦さん。次の任地はマダガスカルだった。このマダガスカルという国が勝彦さんをすっかり魅了する。


「電気もテレビもガスもない。でも一日中歌っているような場所で、それが最高なんだと親父が言っていました」


マダガスカルに行く前にケニアの土木事務所で通訳として働いていたファンザさんと再婚した。マダガスカルが故郷であるファンザさんが「自分も連れて行って欲しい」と頼んだのがきっかけだそう。そこからずっと連れ添うことになる。


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一番左がファンザさん。


――その後、ずっとマダガスカルで生活されていたんですか?


「僕も正確なことはわからないのですが、親父とファンザが一緒に日本で暮らしていた時期もありました。ちょうど僕が社会人になったころで確か平成6年だったかと。当時の薩摩川内市は今よりもずっと外国の人が珍しい土地柄だったからファンザは大変だったんじゃないかな」


ファンザさんの話せる言語はフランス語。日本語は片言で、聞き取れたとしても自分の思いを的確に伝えるのは難しかったようだ。


「親父はまた出稼ぎで留守しがちだったから苦労したと思います。ファンザはやっぱり帰りたくなったみたいで、5年薩摩川内市で暮らした後マダガスカルに戻りました。親父はその後日本とマダガスカルを行ったり来たりしていました」


勝彦さんは、ファンザさんが日本語を覚えてこちらの暮らしになじんだら、医療系の学校に行って勉強したらいいと勧めていたそうだ。


「僕も去年親父の遺骨を受け取りにマダガスカルへ行ったので、親父が何を考えていたのかなんとなくわかります。マダガスカル出生率がよくなくて、小さな子どもが亡くなっています。親父は村にせめて助産師か看護師がいればと思っていたようです」


その後勝彦さんは、ファンザさんの親戚のマダガスカルの子の中で、勉強が好きな子を日本に呼んで「医療の勉強をさせてあげたい」という夢があったが、ビザや書類の関係で結局叶わなかった。


――元々勝彦さんは「地元鹿児島で温泉を掘りたい」という夢を抱いていたわけですよね。それが、マダガスカルのことばかり考えるようになった。一体何がそこまで勝彦さんを魅了したのでしょう?


「親父は典型的な九州男児といった感じで、楽器が好きなんですけど一人でもくもくとむすっと演奏している感じの人でした。決してみんなでワイワイ盛り上がる人ではない。それが、マダガスカルでは様子が違ったみたいで。遺品の中に現地で交流した日本人からの手紙が残っていたんですけど、それには『裸で踊られていてすごい日本人がいるんだなと感心しました』なんて書いてあってびっくりしました! 僕はそんなダンスするとか、人と仲良くしているのがまったく想像つかない。でもマダガスカルでは素の自分を解放できたのかもね。それは親父よかったねと思いました」

マダガスカル温泉」実は正式名称「愛の泉」だった!

マダガスカルと日本の往復生活を続けていた勝彦さんは、温泉の夢もあきらめていなかった。平成18年、とうとう掘削に成功した。


「気がついたら『温泉やっている』と言われて、えー!と驚きました。でもついに掘れたのか、よかったなと思いました。何年もかけていたので」

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施設の壁に「泉質分析書」の内容を手書きで写してある。こんなの始めて見た。


温泉の掘削に成功したら源泉名、つまり温泉の名前を付けることになるのだが、それが実は「愛の泉」だというから驚く。本当は「マダガスカル温泉」と名付けたかったらしいが、何かの規定に引っ掛かりダメだったそう。そこで、マダガスカルへの愛をこめて「愛の泉」にしたそうだ。一般的(といっても一部の温泉好きか地元民)には「マダガスカル温泉」の名で知られているが、これは実は通称なのだ。


いわゆる “九州男児”な雰囲気だったと称される勝彦さん、それが「愛」という言葉を使うことにちょっとした新鮮さを感じる。


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すべて手作りだからすごい。基準を満たすために、浴槽とは別に洗い場も設けてある。


温泉は日帰り入浴のみ。大人100円。かなり安い値段設定だが、これで源泉かけ流しだ。泉質は単純温泉。肌ざわりの優しいお湯で、美肌成分であるメタケイ酸豊富。泉質のよさに加えて独特の雰囲気からディープなファンも多かった。


「人を呼ぼうとグアバやコーヒーの木を植えていました。『観察日記じゃないんだから、植えたからって毎日見に来る人なんていないよ(笑)』と言ったのですが、『植えたら人が来るよ』と親父は真剣に言っていましたね。夜温泉を切ると冷えちゃうので、寒冷地用に改良した植物を探してほしいとしょっちゅう頼まれました」


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天井まで伸びた植物。南国ムードがある。


――我が道を行く感じですね。


「お姉ちゃんたちは大変だったみたいです。僕は末っ子で比較的苦労がなかったのかも。親父はいろいろと問題のある人でした。例えば、普通子どもの小さいころのものってある程度実家に残っているはずだと思うのですが、僕ら3人が家を出た後にほとんど焼かれてしまいました。だから写真はほとんど残っていません。お酒を飲む人だったから、飲んで感情が高まったときにそういうことをしたみたいです」


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空き家になった自宅。大輔さんに案内していただいたが、驚くほど子どもの思い出の品が少なかった。


しかし、遺品整理をしているときに、大輔さんが見つけた一冊のノート。これにだけは写真が残されていた。


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「おそらく、たまたま残っていたのを後から見つけてこうやって貼ったのかなぁと。これを見つけた時は感極まるものがありました。最初は墓に入れてあげようかと思っていたけれど、せっかくだからこのノートは取っておくことにしました」


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ノートには10ページ以上にわたり昔の家族写真が貼られていた。


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満面の笑みが印象的な幼い日の大輔さん。姉2人と勝彦さんと。

今後の「マダガスカル温泉」

冒頭にも記載したが、温泉施設が営業をする条件「番台を置くこと」が満たせなくなったのでマダガスカル温泉は現在閉鎖されている。今後の再開の予定は未定。


「番台を配置すれば営業はできますが賃金的に無理ですね。入浴料は一人100円で、大体一日2,000円の売り上げ。よくて月に6万円くらいの収入です。そこに必要経費で電気代、施設の修理とかにお金がかかる。事業としては成り立たないですよね。親父はリタイアしていて年金収入もあったからできたのだと思います」


今後この施設をどうすべきか、現在進行形で模索中だ。


オーナーの高齢化や逝去などで、温泉施設が廃業になるケースは多い。少子高齢化が進む現代の日本で避けられない流れだ。だから、「マダガスカル温泉」というひとつの温泉が閉鎖になることは、決して珍しいことではない。しかし、掘削失敗にもめげずにチャレンジを続け、勝彦さんがやっと完成させた温泉がわずか12年という短い間しか営業できなかったことには一抹の寂しさを感じた。


勝彦さんはクセが強く家族に対する態度や金銭面など、決してほめられない部分も多くあったことを聞いた。しかし、よくも悪くも正直に生きてきた印象を受けた。家族に負担を掛けながらも温泉掘削にチャレンジし、マダガスカルでは自由に歌い踊り、人生を懸命かつ自由に生きてきた勝彦さんの様子には一種の爽快さを覚えずにはいられない。


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