鹿児島フリーライターのブログ

横田ちえのブログです。

九州で最後のうどん・そば自販機 43年現役稼働を続けてきた「阿久根商店」の思い出

次々と消えていく全国各地のレトロ自販機。2020年5月31日には埼玉県行田市にあるレトロ自販機とレトロゲームの隠れた名店・オートレストラン「鉄剣タロー」が多くの人々から惜しまれつつ32年の営業に幕を閉じた。

f:id:kirishimaonsen:20210623011439j:plain▲阿久根商店のうどん・そば自販機(2020年7月撮影)

鹿児島県南さつま市の阿久根商店には「九州で最後」「日本最南端」と言われるうどん・そば自動販売機があった。1978年に設置されて以来43年の長い間訪れた人々の胃袋を満たし寒い冬には体を温めて続けてきた。しかし運営元の製麺所を営む阿久根商店が廃業したため2021年6月21日に自販機は撤去された。

f:id:kirishimaonsen:20210623011454j:plain▲自販機で提供されるうどん。麵は自家製麺で、つゆもかき揚げも手作りだった

自家製麺や手作りのつゆ、かき揚げが好評で「おいしい」とファンの多いスポットだった。もうないのは寂しいけれど、ひとつのものが役割を全うして消えていくのはごく自然なことなのだろう。

むしろメーカーが1995年に製造を中止してアフターサービスも終了した機械が、その後25年にもわたって稼働し続けたことがすごいことだと思う。アフターサービス終了後、機械の故障やメンテナンスの理由などから、うどん・そば自販機は全国各地で続々と失われていった。

だからこそ、ここで稼働していた頃の様子を記録にとどめておきたいと思う。コンビニもなかった時代の深夜の心安らぐ場所であり、誰かと集える場所だった。そこにはささやかな憩いがあり、懐かしい思い出や在りし日の地域の姿があった。

お金を入れて25秒 めんを湯切りしてだし汁を注いで作るうどん

f:id:kirishimaonsen:20210623011503j:plain▲「阿久根商店」は南さつま市の国道226号線沿いにある

私が2020年7月に利用した時の画像で紹介する。 

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ドリンク類の自動販売機と並んで、うどん・そば自動販売機がある。「阿久根商店」は食べ物と飲み物で小休止できる場所だ。(※現在もドリンク類の自販機は稼働中)屋外にあるので、売り切れていなければ24時間いつでも利用できた。
 

f:id:kirishimaonsen:20210623011540j:plain350円を投入して購入。昔はそばも提供していたが、装置が故障してうどんだけの運用となった。

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お金を入れると、機械の内部ではお湯を麺に注いで回転しながらほぐして湯切りを行う。そして適温になった麺にだし汁を注いで下の取り口から出てくる。その間なんと25秒。利用したことがある人ならわかるだろうが、汁をたっぷり入れてくれるので、出てくるとき勢い余ってちょっとこぼれちゃうのはご愛敬だ。

麺を湯切りして調理するところ、だし汁は後から注がれるところがカップヌードル自販機と大きく違う点で、おいしさの一因だ。その分動きも複雑になるため、機械の故障も多かったようである。

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後ろを振り返れば緑が眩しい南薩の夏。この環境で食べるのもおいしさの一要素だった。

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食べる場所は立ち食いカウンターと、横のテーブルコーナーがある。

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容器を覆い尽くすほど大きな存在感のあるかき揚げ。かまぼことさつま揚げも入っていて、どれもが阿久根商店の自家製だ。甘いつゆを吸ったかき揚げのやわやわ感が最高だ。

f:id:kirishimaonsen:20210623011450j:plain▲うどんはほどよいコシがあり、喉越しもよくおいしい

昔は10%の確率で自家製チャーシューまで入っていたのだとか。全国各地にあったうどん・そば自販機は、食材のセッティングはそれぞれの運営元で行うので、それぞれの特色があり、だからこそファンの間で各地の自販機を回る楽しみがあるのだろう。

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温かいうどんを食べてじんわりと汗をかいたところに、窓から吹き抜ける風が涼しかった。

 

釣り人が温まり、深夜に若者が集った

阿久根商店がうどん・そば自販機を設置したのは1978年(昭和53)に遡る。当時のことを、南さつま市の老舗醤油店「丁子屋」の宮本佳春さんはこう語る。

「設置された1978年当時から通っていました。コンビニも何もない時代に24時間利用できたからすごくありがたかったです。釣り仲間同士でよく利用していました。自分たちは14時ごろ釣りに出て、小腹が減った夕方に食べて帰る感じです」

「阿久根商店」のある226号線沿いは東シナ海に面しており、枕崎方面に向かって南下していくとリアス式海岸と豊かな漁場が広がっている。近くには小湊漁港や野間池漁港があり、釣り客が行き帰りに立ち寄りやすい場所だった。
 

f:id:kirishimaonsen:20210623013017j:plain▲海岸沿いの道には「南さつま海道八景」があり、絶景スポットが多いことで知られている。絶景を求めて訪れるバイカーやサイクリストにも「阿久根商店」は人気だった。写真は坊泊漁港

当時はうどん・そば自販機のほかに、ハンバーガー自販機、おにぎり自販機などもあってバリエーション豊かだったという。近くに車を停める空き地があり、夜の21時すぎ頃になるとたむろしている若者もいたそうだ。今でいうコンビニ前に集うような感覚だろうか。

また、同じころ小湊漁港にもラーメン自販機が設置されていた話を聞いた。ここでも釣り人達が釣りをして体が冷えたりお腹が減ったりしたらラーメンで温まっていたのだろう。しかし、2003(平成15)年頃にはもうなかったという。

「中途半端な時間でも利用できるし、釣りシーズンは冬だからあったかいもんがうれしかったです。出来立てでおいしいし。たまに夜小腹が減って、家から走って食べに行ったりしていましたね」

  

深夜に働く人たちの癒し

うどん・そば自販機の正式名称は「富士電機めん類自動調理販売機」で、1975(昭和50)年に開発・量産化された。この機械の開発当時はどのような需要や目的があったのだろうか?

メーカーの富士電機株式会社に問い合わせたところ、詳しい資料が残っておらず当時の販売台数、販売先、地域特性など細かいことはわからなかったが「カップ式自販機・瓶・缶自販機等の飲料自販機以外に食品自販機・物品自販機等を開発しラインナップの拡充を図っていたようです」と回答してくれた。

日本に飲料自販機が登場したのは1962年。アメリカの大手飲料メーカーが日本に進出し、1967年には100円硬貨が改鋳されて硬貨が大量流通することで、飲料自販機は使いやすくなりさらに広まっていく。(参考:一般財団法人全国清涼飲料連合会「自販機の歴史」

さらに高度経済成長期を経て、日本の夜は明るくなっていた。深夜に働く人たちが増え、夜どこにも食べに行く場所がない人たちにとって、自販機の飲み物はありがたく、さらに食べ物の需要もあった。

f:id:kirishimaonsen:20210623013349j:plain▲指宿の夜景

うどん・そば自販機は、高速道路のサービスエリアやパーキングエリアなどにもよく設置された。現在はうどん・そば自販機の姿はもうほとんど見ないが、さまざまな飲み物や食べ物の自販機が揃うスポットだ。深夜に長距離移動をするトラック運転手にとってほっと一息つける癒しである。

 

24時間いつでも訪れる人たちを受け入れてきた「コミジョイ」

阿久根商店のうどん・そば自販機は、設置された昭和から平成、令和と、43年にわたって稼働し続けてきた。

これだけ長い間稼働を続けたのは、自販機を阿久根商店社長自らが修理を行っていたことによる。1978年ここにうどん・そば自動販売機を設置した頃、その他県内各地にも同じ機械を設置した。合計で6カ所。その後故障したものから部品を移植して、メンテナンスを続けてきた。

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「阿久根商店」のことを、地元では「コミジョイ」の愛称で呼ぶ。これは24時間いつでも営業しているファミリーレストラン「ジョイフル」にちなんだ「小湊のジョイフル」からきている。中高生たちにも人気で、学校や部活帰りにちょっとおしゃべりをしてうどんを食べたり飲み物を飲みに立ち寄る場所だった。24時間営業のファミリーレストランのように、「コミジョイ」はどんな時間帯に訪れる人のことも受け入れ、寄り添ってきた。

南九州市川辺在住、南さつま市勤務の原田さんは「関西に長くいて鹿児島に戻ってきたころ、噂を聞いてすぐに訪れました。みんなが「コミジョイ」っていうから何のことかと思っていた」と話す。

「冬の仕事帰りに助かる存在でした。小腹減ったな、寒いからあったかいもの食べたいなって時に、あつあつでボリュームたっぷりのうどんが食べられました。製麺所の麺だから本格的だし、つゆもおいしかったです」

f:id:kirishimaonsen:20210623013556j:plain▲このひたひたにたっぷり注がれたつゆが最高だった

懐かしく思い出される地域の名スポット

このうどん・そば自販機は、訪れた人にさまざまな思い出を残してくれた。

f:id:kirishimaonsen:20210623013811j:plain南さつま市の海岸沿いへ行くときによく通った道。雄大金峰山と周囲の田園風景が印象的な、どこか懐かしさを感じる風景

南さつま市は鹿児島県の西南端にある。入り組んだリアス式海岸雄大金峰山を望む風光明媚で美しい土地だが、観光地としての知名度は低く訪れる人の数は決して多くない。そして、多くの地方の例にもれず、少子高齢化・過疎化が進行する土地である。

それでも、この「九州で唯一」「日本最南端」のうどん・そば自販機を目指してやってくる酔狂な人たちも多くいた。ここは間違いなく地域の名スポットだった。

記憶の中で思い起こされるとき、ある人は自分の青春時代の部活帰りの同級生との時間を、ある人は深夜の仕事帰りの癒しの時間を、ある人は釣果に喜んだ帰り道の時間を、またある人は遠路はるばる目指してやってきた旅の時間を、この自販機とうどんと共に懐かしく思い出すのだろう。

私も数回訪れた時のことを懐かしく思う。特に夏が印象的で、道中通った道沿いの風景や、南薩特有の草の匂いと湿気を含んだ空気のことを強く覚えている。

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撤去されたうどん・そば自販機はどこへ行ったのだろうか? まだ稼働していたし、ファンの多い貴重なレトロ自販機だ。廃品処分されたのではなく、どこかに買い取られて再び稼働するのではないかと、またどこかで再会できるのを期待している。もし新しくうどん・そば自販機が設置されたのを見かけた人がいたら、ぜひ私にも教えて欲しい。

 

 
(取材・文/横田ちえ)

参考資料:
富士めん類自動調理販売機PDF
2019年5月16日付朝日新聞「うどん自販機 レトロ感も味」
一般財団法人全国清涼飲料連合会「自販機の歴史」

夢破れても筆折らず 生涯ツルを描き続けた孤高の画家・宮上松岳の絵に魅了されて

熊本との県境に位置する鹿児島県出水市は、日本最大のツルの渡来地として知られている。その出水で、ツルを描き続けた画家がいる。宮上松岳さん(1914-1988)だ。


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毎年10月中旬から12月にかけて、はるかシベリアから出水までやってきたツルは、翌年3月頃まで越冬する。長い果て旅路の果てに羽根を休め、エサをついばみダンスをするその姿は、出水の冬の風物詩である。


私が松岳さんの絵に初めて出会ったのは、出水市の山深い場所にある大庭園「東雲の里」だ。園主の宮上誠さんは、看板と陶芸の仕事をしながら46歳の時に山を購入。「ここに最高に美しい庭園を作ろう」と20年以上の歳月をかけて開墾し、花や木を植え、石畳を敷き、園内に蕎麦屋や陶芸窯を設けて、一大庭園を築き上げてきた。


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▲初夏には約10万本のアジサイが山を彩る。「東雲の里」は日本各地のみならず海外からも人が訪れる出水市の観光名所だ


そんな「東雲の里」園内にある蕎麦店の片隅に、『出水ところどころ』と題された古い画集があった。


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何気なくページをめくってみると、紫尾山や牧場など出水の素朴な風景が美しく流麗な筆づかいで描かれていた。私は情感あふれる、郷愁をさそうような絵に心惹かれた。そこはかとなく寂しさが漂うのも心に残る……。聞けば、園主・誠さんの亡き父、宮上松岳(本名:松市)さんの自費出版だという。


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「親父は無口で不愛想。人と朗らかに話しているところなんて見たことがない。そんな人を寄せ付けない性格もあってか、描いても描いてもあまり絵を見に来る人はいなくて、晩年は創作意欲が失せてしまっているように見えました。やっぱしなぁ、人が見に来てくれたり買いに来てくれたりするような、意欲が湧くようなことがなければ、作家はダメなんですよ」


画集最後のページを開くと美術展での数々の受賞歴が記されてあるが、画家として広く世に出ていくことは叶わなかったようだ。筆一本で生きる道は厳しく収入は看板製作だったという。


いったい松岳さんはどのような人生を歩んできたのだろうか? 私は、強く人を惹きつける絵を描く力がありながらも、画家として報われない運命を辿ったひとりの人物のことが強く気になってしまった。


人と馴れ合わない孤高の画家のイメージが浮かんだ。しかし、残された絵や文章に目を通し、親族に話を聞いて取材を続けるにつれ、私の中の松岳さん像が揺らぎ、無彩色だったその姿は、次第に色を帯び、陰影が深まっていった。


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大画伯たらんと青雲の志を抱いて

私の少年期は貧困で、修学旅行にも行かれない時代であった。しかし、向学心は人一倍強く、番頭、土工、牛乳配達、氷配達等様々な仕事をやり、NHKドラマおしんの少女物語よりひどいものであった。勉強の出来ないところには永居せず次の土地へ転出しつつ上る。昔は職を選ばなかったら仕事にありつけた。熊本、福岡、連絡船で関門を渡り岡山、姫路、大阪、名古屋、東京等。大画伯たらんと青雲の志をいだいて。  ―『出水ところどころ』より


松岳さんは画家を目指して歩んだ道のりを一切語らなかった。「とにかくしゃべらん人でな」と誠さん。しかし、画集や文化誌への寄稿でいくつか自分のことを書き残している。そこには、夢いっぱいに郷里を後にして、苦労しながらも新しい世界へ飛び込んでいった少年のみずみずしい高揚感が表れている。


焼けつくようなアスファルトの上を歩いて氷を運び、得意先の冷蔵庫に収めた。午前中いっぱいで氷配達を終えると、午後からはスケッチブック片手に街をぶらつく。百貨店や呉服屋のウインドーから着想を得て着物の図案を描いて、それを織物屋に売って下宿代を稼いでいた。


貧困の中でも、若き松岳さんは身一つ、筆一本で力強く世の中を渡り歩いた。


漂泊の少年時代を経て18を過ぎた頃、大阪で南画家の大家である矢野橋村の書生になる。矢野橋村が校長を務める大阪美術学校にも通い始め、画家としての道の第一歩をいよいよ踏み出し、絵の道に邁進できるかと思われた。しかしそんな松岳さんの思いとは裏腹に、戦争の暗い影が忍び寄っていく。


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二十歳の徴兵時期を迎えたので、居留届なく検査は帰郷、出水小学校の一室で甲種合格のらく印を押された。入隊までは数カ月の間があったので米ノ津で店員をしていた。初志挫折。現役二年、支那事変二年半、対戦と続く。終戦。  ―『出水ところどころ』より


掴みかけた夢は儚く消えた。色鮮やかだった世界は戦争で黒く塗りつぶされた。まるですべては幻だったかのように。


運命を変えるはずだった一通の手紙

こんこんとした戦後の世相の中で食わねばならない。筆で生きるには……。  ―『出水ところどころ』より


戦火は松岳さんの左足のひざに直径4センチの傷跡を残した。復員後すぐに矢野橋村に手紙を出し、再び書生になりたい旨を知らせたが、待てど暮らせど返事は来なかった。白黒の似顔絵描きをして働くうちに、シノメさんとお見合いをして結婚が決まる。松岳さんは初婚、戦争で夫を亡くしたシノメさんは再婚で、亡き夫との間の一人息子がいた。


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結婚の日取りも決まったある日、掃除のために普段は締め切っていた雨戸を開けると封筒が落ちた。郵便配員が差し込んだものを、家族の誰もが気づかなかったのだろう。配達から大分日数が経っていたが、矢野橋村からの便りで「門下生が一人不足しているからすぐにいらっしゃい」と書いてあった。

結婚をふり捨てて出掛ける勇気もなくチャンスを失して残念。今でもその事は心のこりである。こうして米ノ津に住み着いてしまった。あの時一通の手紙を配達当時見ていたら私の人生も変わっていたかも知れない。 ー『出水文化』(1970.11発行)より 


郷土史家の田島秀隆さんは、鹿児島市で開催された広告展(野外広告美術コンクール)で松岳さんの展示を見ている。多くの展示物の中にひときわ目を引く作品があり、それが松岳さんの絵だったという。いつも群を抜く入選作だった。松岳さんの画集『群鶴百態』の序文にこう寄せている。

専門の画家としての修養をされたなら、どれ程の成長を見られた事かと惜しまれてならない。それでも国際美術展のフランス・ニース大賞展入賞など、国際的にも着々とその地歩を築いて来られた。  ―『群鶴百態』より


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▲松岳さんの看板絵


矢野橋村の書生となり、大阪でひたすら絵に打ち込んだ日々、この時間があともう少し続いたのなら……、便りに早く気がついていたら……。この世に「もしも」はないが、存分に才能を伸ばす時間や環境があったならと思わずにはいられない。


郷里の風景に美しさを見出して

仕事で出水のあっちこっちに出かけると広いなあとつくづく思う。上場高原、ここのお茶は特にうまい。芭蕉の山々、展望では矢筈・紫尾の両山。積水工場の先に出水養鶏所がある。ここから見る北は特に広さを感じさせる。  ―『出水文化』(1967.9.発行)より


結婚後、息子(誠さん)と娘が生まれる。しばらくすると、長男は戦死したシノメさんの亡き夫の母からぜひにと乞われて、引き取られていった。松岳さんは水俣太陽映画館で看板を描く職を得たのち、昭和24年独立して看板店を設立した。


家族がおり、生活があって、画作にのみ邁進することはできなかったけれど、看板屋の仕事でリアカーに荷物をのせてあちこちを奔走しながら、松岳さんは出水の風景に美しさを見出していった。仕事の合間に絵を描き続けた。


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▲『紫尾の夕映』 今仰ぎ観る無窮の大地を、青空に映えて夕日に染む


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▲『名古港展望』 清風と緑を展望の東光山、ここから見る出水平野八代海は人々の心に風光明美の趣をあたえて、わが心に忘れていた野生をゆさぶる


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▲『福之江海岸』 あの松並木を誇った頃の並木も今はあとかたもなく消えた。海水浴場として永年親しまれたが、これも消えた


日常の延長線上にある出水のあたり前の風景を、詩情豊かに描いている。絵には文章が添えられたものが多く、心象を反映させた言葉に松岳さんの感性が光る。絵からは、人々の温もりや時代の移り変わり、それに付随するさまざまな感情までが浮かび上がってくるようだ。


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▲『雪の仁王橋』 たまたま積もった雪の早朝。新聞少年自転車をこぐ後方の山は東光山


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▲『五月のころ』  ここに男子あり五月のぼり。矢筈山を背景にあそこにもここにも晴れやかにおよぐ庶民のまつり


私は、松岳さんの絵と文章が、郷里の風景の捉え方が好きだと思った。


空想や幻夢ではない、生きた鶴の佇まい


風景と合わせて、最も多く描いたのは出水に飛来するツルの姿だ。


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▲『声風』


寒風を裂いて鶴の鳴き声が響く様を描いた松岳さんの代表作。独自の冴え冴えとした色調からは、冬の出水平野の透き通るような空気感が伝わってくる。


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松岳さんのツルの絵を収録した画集『群鶴百態』を出版した村田書店店主は、丹念な写生から出発した松岳さんの絵を高く評価している。

そこには空想や幻夢ではなく生きた鶴の佇まいがあり飛翔が感じられるのである。一つ一つの姿態をつぶさに観察し、一瞬の微動すらも捉えて離さない画家の研ぎ澄まされた目がこの様な多種多様の鶴を生み出すのである  ―『群鶴百態』より


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檻の中の鳥ではなく自然の摂理だけに頼って生きる鶴だからこそ、その静も動も真実の姿であろう。そしてその自然は出水であり、宮上氏も鳥達と同様に出水の自然に導かれ、鶴が愛してくれるこの郷土を愛し、この郷土故に筆を採るのである。  ―『群鶴百態』より


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夢を託して玉を磨く


松岳さんは、地元の人々から舞台の背景絵や文化誌への挿絵を頼まれればほとんど断らず、無償で引き受けていた。しかし、一部では絵はタダで描いてもらえて当たり前、感謝さえ言われないこともあったようだ。


無報酬であることは決して厭わなかったが、頼んだ人からお礼すら言われないことへの不信感、貸した絵を返してくれない不義理な人物への憤りを書き残している。一方で、会社の解体工事に伴い以前寄贈した絵を返しに来てくれた人や自分の絵を認めてくれた人への深い感謝の念も綴っている。


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数々の賞に応募し着実に画家としての評価を上げていた。日展や二科一陽展はもとより、フランスニース国際展やオーストリアウィーン国際展での受賞歴があり、現代の名工として鹿児島県知事表彰も受けた。昭和53年の美術年鑑では、一号4万円の評価額だ。一号はハガキ一枚のサイズ。つまり10号の絵を描いたら40万円になるはずである。


しかし、絵が売れることはほとんどなかった。


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どの時代、どの地でも、画家が才能を認められてその道で生きていくのは厳しいが、まわりに同じような画家や作家もいなかった出水の地で、孤独はさらに深まる。


妻のシノメさんは、独立して収入の少なかった頃から松岳さんを支えたが、絵の理解者ではなかった。「いつか海外にスケッチに行ってみたい」と夢を語る松岳さんに、「ゼン(銭)もなかとに大きなこと言いなさんな」と諫めている。

私は私なりに夢がある。その内どこかの人が画を2,3枚買ってくれるよ。そしたら百万円くらいの銭はできるよ。そんな夢を託して玉を磨く。実現せずともよい。それが私の生きがいだ。

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地域の歴史を振り返る絵を描いて街頭展なども行った。


開催された数々の絵画展の記録からは、周囲に理解されにくい環境でも、ひたむきに画作に励んだ画家の孤独と情熱が見えてきた。


親父の絵はどこにあるのか?


けれども息子である誠さんの、画家としての松岳さんに対する評価は、決して高くはない。


看板屋の仕事を手伝うようになり、創作意欲に従って陶芸を始めて、自分の感性を育むにつれ「親父の絵はとても上手だけど、それ以上のものがない」と感じるようになったと言う。


「絵は上手やったど。油絵も水墨画も似顔絵もなんでもきれいに描く。でも強烈な個性がない。親父によく言いよったとです。『親父の絵はどこにあるのか?』と。人の心に残る絵を描いている人は、一目見てその人だってわかる個性がある。やっぱり画家なら自分の絵を追求しなきゃいかんやんか。画家は自分の個性を見つけるのにしのぎを削っている」


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「『俺は好きに絵を描いて本望だ』って言っとった。でも年を取ると親父は絵を描かなくなった。老後は土手の草を払ったり、花を植えたりするばかり。人が来て褒めてくれたり、買ってくれたりすることで、刺激を受けるようなことがなんもなかったからなあ。やっぱり画家は人から認めてもらって創作意欲を掻き立てることが大事なんだと思う。そのためには見に来てもらえるような強烈な個性がないと」


松岳さんに厳しい目を向ける誠さん。それは絵に夢を託しながらも、決して広く世に出ていくことのできなかった父親を反面教師にしなくてはいけないと思うからだと言う。


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果たして松岳さんの絵に個性はないのだろうか? 見る人によってその評価は異なるのだろう。


私には絵の素養がないけれど、独特の情感あふれる絵だと感じた。出水のささやかな風景の中に輝くものを見出して、自分の感性で郷里を捉えた素晴らしい絵だと思う。人が暮らす気配やツルの躍動感が伝わってくる。


「お父さん、お母さんには内緒やっど」


孫の里香さんもまた、誠さんとは違った視点を持つ。


「父は祖父の絵を『個性がない』と言いますが、それは二人の作家としてのタイプが違うからだと思います。祖父はものすごく真面目で。例えば、円を描くにしても父は感性に従って大胆に描くタイプだとしたら、祖父は何かで計ってきっちり円を描く人なんだと思います」


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▲出水のツルを描いた看板絵。


「確かに父の言う通り、ぱっと見て興味を惹く絵とは少し違いますが、私は祖父の絵が好きです。認めてくれている人もいて、『もったいないから世に出しましょう』と東京の出版社の方が熱心に説得に通ってくれて、鶴の絵を集めた画集『群鶴百態』が出版されました。けれども本人は『わからんやつに持っていてほしくない』と、結局画集を自分で買い占めてしまっていました。それが自信のなさなのか、作家としてのプライドなのかは私にはわかりませんが……」


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「私は大のじいちゃん子でした。口数の少ない人でしたが、私が祖父のアトリエで絵に興味を示すと『なんでん描け』と、キャンバスでも画材でも何でも使って好きに書いていいと。そして『父ちゃんと母ちゃんには内緒やっど』と、親が買ってくれないような駄菓子をこっそり買ってきて渡してくれました。私はじいちゃんが大好きでした」


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▲松岳さんが描いた幼き日の里香さん。自宅にずっと大切に飾ってきた。


数々の絵を、小学校や文化施設に自主的に寄贈することもあった。それは人づきあいがさほど得意ではない松岳さんにできる、人との交流の手段であり、感情表現だったのだろう。


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▲自主企画した「絵で見る新町50年史展」。地域の変遷を看板絵で伝えた


「不器用だったんでしょうね、祖父は。立ち回りが上手くなくて、それは画家として成功するには良くなかったのかもしれませんが、周囲にあまり認められなくても出水の街やツルを愛し描き続けた祖父のことを、私は愛しく思います」


小さな美術館を残したい


誰よりも松岳さんの作家としての姿勢に厳しい誠さんは、また誰よりも同じ作家として松岳さんに共感を示す。現在、松岳さんの残された作品を展示する小さな美術館を建設中だ。


「小さくてもいいからなんか残してやりたいと思って。親を思う気持ちっていう以上に、作家として認められたいって気持ちがわかるから」


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▲大庭園「東雲の里」の一角にある納屋を改修して、宮上松岳ギャラリーを開設予定。


松岳さんの絵は、果たして訪れる人々にどんな印象を残すのだろうか? 小さな美術館が完成したら、ぜひ自分の目で確かめて欲しい。順調にいけば年明け(2021年)2、3月頃には完成だ。


現在、出水市へのツルの飛来数は1万羽を超え、それはさまざまな地域の問題を内包する。農作物を荒らされず共存できるようにはじめた餌付けは、さらなるツルの渡来数増加につながり、伝染病発生のリスクもはらんでいる。だから出水は美しいツルの渡来地とシンプルに礼讃できる状況ではない。


けれども、この地で絵に夢を託し、ツルを描き続けた孤高の画家がいることは、ささやかでいいから誰かが覚えていて欲しいと願わずにはいられない。

大画伯たらんと志した夢は棒にふったけれど、耐乏生活し乍ら筆に生きたことは一貫性があるのでマアイイさ。筆に謝し5年前、せまき我が庭に筆塚を建立してまつる。わがしょうがいは 筆にたくして生きる道。と刻む  ―『出水ところどころ』より


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(取材・執筆 横田ちえ)

周囲30キロの絶海の小さな孤島を巡る トカラ列島中之島旅行記・中編

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深夜のフェリー便でしかたどり着けない離島へ トカラ列島中之島旅行記・前編 - 鹿児島フリーライターのブログ



今回の旅のテーマを決めていたわけではないけれど、トカラ馬を見ることは大きな目的のひとつだった。


現在日本にいる馬は、ほとんどが西洋種との交配が大きく進み、日本に昔から存在した「日本在来馬」は8種を残すのみである。(北海道和種、木曽馬、野間馬、対州馬御崎馬、トカラ馬宮古馬、与那国馬)ただし、これらの在来馬も西洋種の影響は多少受けているのだとか。


私が普段馬と聞いてイメージするのは、競馬でおなじみのサラブレッドの姿だ。「日本在来馬」はどんな佇まいなのか、実際に見てみたいとずっと思っていた。


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竹の生い茂る狭い道路を抜けて、牧場のある丘の上の高尾地区を目指す。細い道を車で進むと、竹の枝がばちばちと車体をこすった。


中之島の林は、牧場などをつくるために一度草木を刈ってしまうと、もとの林には戻らず完全な竹林になってしまうのだと聞いた。竹の伸びるスピードがすさまじく速いため、他の樹木が育つ余裕がないのだ。原生林のように見える中之島大自然も、人間の暮らしの影響は確実に受けているのだと気づかされる話だった。


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高尾地区。広々とした牧草地帯。


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カラ馬の牧場はオスとメスで場所が分かれている。「男子寮」「女子寮」の表現がかわいい。向こうに見えるのは島で一番標高の高い活火山・御岳だ。


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カラ馬だ! なんだか胸が熱くなった。連なる山々を背景に、雄大な牧場が広がっている。朝の柔らかい光を受けてトカラ馬の栗毛が艶やかだ。躍動する肢体が美しい。


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カラ馬サラブレッドとは違い、どこかどっしりと愛嬌のあるフォルムをしている。か細い足で重い体を支えているサラブレッドとは違って、心持ち足もしっかりしている。安心感と愛らしさのあるフォルムだ。


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途中、メスの方の牧場に猫が侵入した。馬たちはみな一様にテンションが高くなり、じゃれるように猫のいる方向へ駆け出して行った。ちょうど餌を用意していたタイミングだったのに、食欲より好奇心が勝っていることが印象的だった。必ず餌がある安心感もあったのだろうか。無邪気な好奇心が愛らしく思えた。


しかし、ここは決して楽園ではないのだと思わされた。オス馬の牧場では、一匹のオス馬が餌を食べようとするとほかのオス馬に阻止される、といった妨害を受けていた。関係性がうまくいっておらず孤立しているらしい。


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「餌はいっぱいあって足りているのに……」とつぶやく管理人さん。


牧場には南国らしい椰子の木が揺れ、遠くに見える山々は美しい。温暖な気候で、必要な環境や食料は揃って満ち足りたようなこの牧場でも、生きていく上の困難や緊張から逃れられるわけではない。


妨害を受けながら隙を見てその馬に餌を運んでいる管理人さんの姿が、救いのように印象に残った。


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牧場を後にして、島をあちこち巡った。島には野生のヤギがたくさんいて、車を走らせていると横の茂みがガサガサ動く。生後1~2日とみられるヤギの赤ちゃんにも出会った。草食動物であるヤギは外敵から逃げられるよう、生まれて15分〜1時間くらいで歩けるようになる。


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御池(おいけ)。島の人の間では「底なし沼」と呼ばれている。鬱蒼とした緑に囲まれて、怖いくらい静かな場所だった。


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中之島港の反対側にある大木崎。向こうに見える島影は口之島だ。陸続きの土地に暮らしている私にとって、四方をすっかり海に囲まれて、海の向こうに見えるのは近くの島の影だけ、というのがなんとも不思議な感じがした。歩いて行けるのは周囲30キロのこの小さな島の範囲だけ。もちろん車や電車に乗って、ふらっと遠くへ行くこともできない。


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十島村歴史民俗資料館で見た丸木舟。


今はフェリーで本土と行き来しているが、昔の主な移動手段は一本の木をくりぬいて作られる丸木舟だった。海に囲まれたトカラの人々は丸木舟で島々を行き交い、文化を運び、魚を獲り、命をつないできた。


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浜を見ればペットボトルやプラスチックの欠片など漂着物だらけだった。中之島に限らず、鹿児島各地の浜でも見かける光景だ。


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中之島で聞いた話で印象的だったのが「ダツ漁」だ。ダツはキリのように鋭いくちばしを持った、長さ1メートル程度の細長い魚。泳ぐスピードがとても速く、猛スピードで人に向かって突進することもあるそう。そのため、ダツ漁の最中、勢いよく飛び出してきたダツが胸部にささって亡くなった人もいると。


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集落から少し離れた山奥にあった、かつて島民が住んでいた廃屋を見た。コンクリートの壁を残して解体されており、勢いよく生い茂る草木に侵食されている。入り口さえも覆い隠されていて、教えてもらわないと気が付かなかった。人が住まなくなると、家の跡地はこんなにあっという間に自然に飲み込まれるのかと感慨深かった。


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人がいなくなったこのエリアで、巨大にそびえるカジュマルが印象的だった。


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どこまでも続いていくような細い道はヤルセ灯台へと続いている。この日はあいにくの曇りだったが、晴れていたら青空に白い灯台がさぞかし映えるのだろうと思う。


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角とヒゲの立派なヤギに会った。


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灯台の先は断崖絶壁。こういう崖を見るとどうしても2時間サスペンスを連想してしまう……。


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最後に、中之島で一番標高の高い山、御岳の中腹まで車で行った。


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こうして見晴らしのいい場所から島を見ると、断崖絶壁に囲まれた土地だということがよくわかる。火山島のため地形は急峻。平地は少なめで、農業用地を確保するのにも厳しい苦労があったはずだ。


周囲30キロの小さな島だけど、1950年代に島の人口は1500を超えるほど賑わっていた時代があると聞いた。港周辺は多くの人が行き交い、遊郭もできるほどの賑わいだったという。


中之島を含む十島村第二次世界大戦後に、口之島の北緯30度線以南がアメリカ統治下に置かれ、1952年に本土復帰している。アメリカ統治下では本土と表立って行き来ができなかったので「密航」が多く行われた。


平成29年10月31日の調査では、中之島の人口は164人と記されている。


(後編につづく)