人知れず埋もれゆく鹿児島の廃寺跡を探し歩き、撮影し続ける人がいる。
幕末から明治にかけて行われた廃仏毀釈。これにより鹿児島から寺が消滅した。
かつての古寺跡の一部は史跡や神社になっているが、ほとんどの跡地が一般の墓地となり、時代の流れで人々から忘れられつつある。
写真家の川田達也さんは、そんなかつての廃寺跡を巡ってブログ「薩摩旧跡巡礼」に記録を残し続けている。
川田さんの撮影する廃寺跡は、静謐な美しさが漂う。
雪の福昌寺跡の景色は大変美しいものでした。境内は静寂に包まれ、現代文明の音は聞こえません。音といえば雪の降る音や風の音、木から雪が落ちる音、自分の足跡のみ。カメラのシャッター音だけが現代文明を思い出させます。―「薩摩旧跡巡礼」福昌寺雪景より
昔はこの一帯全てが岩屋寺境内であったそうです。大伽藍は姿を消しましたが、お寺の荘厳な空気は全く失われていません。今まで訪れた廃寺跡の中で随一の空気を有しています。―「薩摩旧跡巡礼」岩屋寺跡(1)より
鹿児島の廃寺跡をこんなに美しく撮影する人を、他に知らない。
廃仏毀釈は文化の破壊の象徴として嘆く声はよく聞かれるが、ではその廃仏毀釈の跡地に残る痕跡や美しさを熱心に見てきた人はいただろうか。
消えゆく廃寺跡。当時の文化や人々の足跡。川田さんは「今がぎりぎりまだ記録が残せる瀬戸際」だという。
川田さんは何を思い、どのように活動をしているのだろうか? 話を伺いに行ってきた。
東日本大震災、日本横断、故郷鹿児島
発端は、故郷鹿児島を離れて京都で学生生活を送っていた頃に遡る。
▲大学までの通学路。
「京都で生活していると写真が撮りたくなるんですよね。アルバイトで貯めたお金で初めて一眼レフカメラを買って、京都の古寺や古社を夢中で巡っていました。そんな時、ふと子どもの頃から歴史ある神社仏閣が好きだったのに、どうして地元鹿児島の古寺に行った記憶がないのか、と疑問に思いました」
▲大学4年間で数えきれないほど通った下鴨神社。これは初めて訪れた2008年に撮影した思い出深い写真
その答えが廃仏毀釈だった。幕末から明治にかけての神仏分離・廃仏毀釈。薩摩藩では特に徹底して行われ、藩内に1066あったとされる古寺がすべて消滅したのだ。なかったからこそ、訪れた記憶がなかったのだ。
それに思い至ったとき、いつか鹿児島の廃寺跡を巡ってみようと思った。しかしそのまま関西圏で就職するつもりだったため、鹿児島で廃寺跡巡りをする計画はどこか遠く未来の話だった。
▲国指定重要文化財「東光寺大雄宝殿」
大きな転機となったのは、2011年3月11日に発生した東日本大震災。
「友だちと飲んで寝ていたんですけど、起きたらちょうどテレビで津波が来ている様子が流されていました。なんかふと、これは現地に行って自分の目で見ないといけないと思いました。就職活動もやめて、一度鹿児島に戻って資金を貯めて行くことにしました」
翌年大学卒業後に鹿児島に帰郷。アルバイトで貯めた40万円でバイクへ乗って東北へ。この時の記録は本人のブログを読んでいただきたい。
その時、旅の途中で相性のいいところが見つかれば、そこに住んで働いてもいいな、と考えていたそう。けれども、多くの土地を見れば見るほど故郷鹿児島への思いが強まっていく。
「全国各地のいろんな風景を見てきてわかったのが、どこに行っても鹿児島と比較してしまうことです。鹿児島だとこんな風だな、こうだったな、とか。だから鹿児島に戻ろうと思いました」
そうして帰郷。その後、地元スーパーの青果コーナーで勤めながら本格的に廃寺跡巡りを始める。時間の融通が利くように、非正規社員として働くことを選んだ。ひたすら休日は車やバイクで廃寺跡を捜し歩く日々が始まる。
川田さんが初めて訪れた鹿児島の廃寺跡は福昌寺(ふくしょうじ)だ。
「衝撃を受けちゃって。なんだこれ、なんで今まで知らなかったんだろうと無知を嘆きましたよ」
伽藍などは廃仏毀釈で失われていたが、禅寺の荘厳な雰囲気は失われていなかった。島津家代々の墓塔が静かに並んでいる。淡い黄色が美しい山川石、整然と並ぶ様子、歴史を感じさせる趣……。すべてが美しかった。
そこは決して廃仏毀釈の悲しみを感じさせる場所ではなく、ただ静寂と主張しない美があった。
Google mapと古書で廃寺跡を探し出す
廃仏毀釈で失われたとされる鹿児島のお寺の数は1066とされている。有名な廃寺跡なら情報が残っており最近では自治体がHP等に掲載しているが、手掛かりの少ないところもたくさんある。川田さんはどうやって探し出しているのだろうか?
「薩摩藩が編纂した『三国名勝図会』※っていう古書があるんですよ。それを元に探しています。お寺の名前がのっていて、当時の役所から犬の方向に十二町とかそこまでの方向と距離が書いてあるので。それを現代の単位に置き換えて、google earth開いて、定規当てたりしながら場所を割り出して、そこに墓地があれば間違いない。ストリートビューがあったらさらに確認して」
※江戸時代に薩摩藩が編纂した領内の地誌や名所を記した書物。
限られた情報を丁寧につなぎ合わせて答えを導き出す。まるで宝探しの冒険のようだ。山深いエリアに入る時には、3000メートル級の山に登れるトレッキングシューズに、目立つ色のパーカー、手袋、懐中電灯と装備を整えて出発する。
▲川田さんの本棚には郷土史がぎっしり。
そうして探索へ赴き、廃寺跡を発見した時はどんな気分なのだろう?
「うれしいですよ! もうテンション爆上がり! なんて言うんですかね、何かを達成した感じとは違うんですけど、普段生活しているときでは味わえないような……」
▲正田院(しょうでんいん)跡を発見した時の画像。土砂崩れで奥の寺跡は土砂に埋もれてしまっていたが、小さく頭を出した墓塔でその痕跡を確認できた。
「お寺の跡を見つけた時点では『やっぱりあったな!』なんですけど、ここで碑文とか、資料にないものが見つかった時のあのワクワク感。謎を見つけた喜びですよね。埋もれつつある謎がもう一回掘り起こせた!」
鹿児島でほとんどの人が見過ごしてきた廃寺跡。その謎はひっそりとただ自然に侵食されていくだけだったかもしれない。
「高揚感はクセになりますね。あれを常々味わっていたらスーパーでレタス切っていられないです!」
最初の頃は無我夢中で一日に4~5箇所も巡っていたという。最近ではペースが落ち着いて一日1~2箇所。よりじっくり碑文や墓石を見るスタイルに。廃寺跡巡りで見た知識が総合的に結びつき、碑文解読の精度が上がった。
「最近たまに困るのは、なんていう名前かわからない、本にも出てこない寺跡を発見するようになったことです。地元の方に、あっちにあるよ~と案内してもらって痕跡があるんですけど、そこにお寺があったっていう情報がどこにも見つからなくて……。ここは何なんだろう? っていうのがちょこちょこ出てきていていますね」
廃寺跡巡りと続けることは、謎を次々と発掘してしまうことでもある。
▲歩いている途中、道端に石塔を見つけるとすかさず確認する川田さん
「廃寺跡巡りでは、これがこうだから、こっちはこうなっているはずだ、って考えが一個も通用しない! もう仕方ないから謎は頭の片隅に置いていく。そうしてフラットな目で見ていると、ある時ふと思わぬ発見があったりします」
墓石は嘘をつかない
川田さんの廃寺跡巡りに同行させてもらった。
鹿児島県霧島市の念仏寺(ねんぶつじ)跡へ。
▲三国名勝図会には、「吉水山光明院念佛寺 地頭館より丑方一町」とある。
▲古い看板には念仏寺について記されていた。
跡地にはやはり伽藍はないが、念仏寺にあった数多くの墓石が残されている。川田さんはそれを一つひとつ丁寧に見ていく。
歴代住職の墓が並んでいるエリアがあり、ここに第十代住職の島津良久の墓石がある。手前2番目の一番立派な五輪塔だ。
「ここに眠っている良久は島津家14代当主勝久の孫です。勝久は政権争いに敗れて大分に亡命した人。だから良久は本意じゃなかったかもしれないけど、住職になるしかなかった。いわばはじかれた一族です。でもこんな立派な墓石で供養されている。だからきっとくじけずにきちんと頑張ってきたんでしょうね」
▲良久の墓の前には、花も添えられている。
静かに佇んでいる墓石。意外なほど雄弁だった。
▲石に刻まれた文字は、陰影が薄くなっていて読みづらい。ペンライトで照らすと少しだけ解読しやすくなる。
「文書に残るのは、いわば“勝者の歴史”です。墓石を通して見ると歴史の表舞台に立てなかった人たちも、懸命に生きていた痕跡がわかります。資料とかはその時代の都合で書き換えられることもあるけど、墓石は嘘をつかないですからね。まあ、たまに墓石も嘘つきますけど(笑)たまーにね」
歴史に名を残した人たちだけが、歴史を作ってきたのではない。“敗者”とされた人たちも確かに存在した。
そして、墓石は歴史上の人物の知られざる一面を教えてくれることもあるという。
▲これは姶良市の長年寺跡に残る石碑。島津家25代当主・島津重豪(しげひで)の母・都美(とみ)の三十三回忌に建てた供養塔。
「都美は重豪を生んですぐに亡くなっており、石碑には会うことの叶わなかった母に対する重豪の思いが刻まれています。重豪は優秀な人物であったにも関わらず『西洋文化にはまりすぎた』『豪華な生活で藩の財政をおびやかした』と、あまりよい人物評ではないのですが、この石碑からは彼の違った側面が伝わってきます」
死んだ証ではなく、生きた証
奥へ進んでいくと、もっと素朴でシンプルな形の墓石群が並んでいた。このあたり一帯は、市井の人たちの墓が並んでいる。
▲真ん中にあった墓石には、戒名「泡雪童女」と刻まれている。幼い少女の墓だ。
「戒名を見ていくと『いい名前つけるなあ』って思います。花や風景を連想させるような情緒のある名前。センスですよね」
春先に儚く降る、すっと消えてしまいそうな淡い雪。そんな情景が目に浮かぶ。とてもきれいな戒名だと思った。
「墓石に刻まれた文字を見てみてください。それぞれ字の書き方に特徴があって興味深いですよ」
▲右上がりの文字に勢いを感じる。
▲几帳面さを感じるような、丁寧に書かれた文字。
「墓石を作った石工たちの情報って表にほとんど出てこないんです。でもこうやって字を見ると個性を感じますよね。文字ってあらゆる人間の個性が出るんですよ。見ていると、なんだか親近感を覚えますよ」
▲勢いを感じられる堀り方。石工はおそらく墨で石に下書きをして、その後に道具で彫っていたそう。
達筆な文字もあれば、どこかぎこちなく不器用さを感じるものもある。
それを一生懸命掘ってく石工の情景が目に浮かんで、遥か昔の人たちが急にぐっと近く感じられた。この時の感情をどう説明していいのか、どの言葉を選んでも的確ではない気がするけれど、シンプルに言うとびっくりするほど感動してしまった。遠い昔の、知らない人の墓石。それを見てこんな感情が揺さぶられるなんて、思ってもいなかった。
「面白いですよね。みんなもっと、ちゃんと見たらいいのにって思います! お墓は亡くなった証拠でも悲しいものでもなくって、その人が生きた確かな証なんです。これだけいろんなことを伝えてくれて、多くのことが読み取れる。だから、墓石は僕の先生です」
廃寺跡に残された墓塔や墓石は、悲しみの象徴で近寄りがたいものだと思っていたが、決してそんなことはなかったのだ。
▲この場所に流れている空気もなんだか心地よかった。もちろんそれは、地元の人たちによって丁寧に手をかけられているのも理由だ。
「当時の人の死生観は、死も生の一部でした。今よりもずっと死が当たり前で、身近で。だからお墓も怖いとか悲しいところではなかったのかもしれない。あの世とこの世の境目みたいなところ。鹿児島でも数十年前まではお盆の時期になると、墓地に出店が出て、食べ物が売られていて。賑やかな感じで墓参りしていたみたいです」
▲オルガンが掘られた墓石
▲お酒が掘られた墓石。
「デザインも面白いんですよ。今の僕らじゃ絶対考え付かないデザインしていますね。明治以降になると、故人が好きだったものを墓石に刻んでいることがあります。お酒が刻まれているのを見ると『ああ、酒好きだったんだな』って親しみが湧きますよね。今みたいに写真がないから、オルガンを掘るのには苦労したんじゃないかな」
川田さんは廃寺跡を訪ねた後は、必ず線香を一本上げてその場を後にする。
「この行動が正しいのか、正しくないのか、正直わからないです。でも、訪ねさせてもらって、写真を撮らせてもらって、手ぶらはないだろうと。せめてもの手土産に線香をやらんと、と思うようになりました」
『鹿児島古寺巡礼』出版
川田さんは2018年には著書『鹿児島古寺巡礼』を出版。これは巡った廃寺跡の中のうち、島津本宗家及び重要家臣団二十三家の由緒寺跡を収録したものだ。本のために改めて古寺跡を撮り下ろした。
きっかけは、ブログ仲間で「永吉南郷会」の顧問を務めている本田さん。かねてから川田さんの熱心な活動に感心しており、出版に向けて尽力してくれた。
▲本田さんのブログに出版の経緯が書いてある。
歴史的価値や内容には自信があった。しかし正直なところ関係者の誰もが売れるとは思っていなかった。ところが、多くの関係者の予想を裏切り、本は大型書店で2019年1月のランキングトップ10入りした。
抗えない歴史の流れと個人でできること
出版をしても、スーパーの青果コーナーで働きながら休日に廃寺跡巡りをする生活は変わらない。でもこれを機に、少しずつ、本当に少しずつではあるが活動を認知されてきた。
現在は毎週金曜日に鹿児島県姶良市のコミュニティFM放送局「あいらびゅーFM」でゲストを務める。話題は寺にまつわるあれこれ。
これから川田さんはどんなところを目指してくのだろうか?
「今すごく思うのは、歴史の流れには抗えないんだなってこと。廃寺跡巡りを始めた頃は、地域のみんなで保存とか、地元の子どもたち伝えたいとか、思っていたんですよ」
これだけ現地を訪ね歩いていたら当然の思いだ。探すのに一番苦労した正田院跡を見つけた時の記録に、熱い思いが溢れている。
廃寺後も畑を耕す人やお墓参りへ向かう人で賑わった場所も、ついに跡形もなくなってしまいました。荒れすぎていて明確な伽藍配置もわからず、推測しかできません。そのような状況の中にわずかな形跡を見ることができたとき、少しホッとしました。「正田院はまだ完全に消えたわけではないんだ」と。この場所を綺麗にしても何の意味もないかもしれません。しかし、将来的にどうにかしたいと思うのは無駄でしょうか。―「薩摩旧跡巡礼」正田院跡より
▲『三国名勝図会』に残されたありし日の正田院。景色が良すぎて詩を読まずにはいられない場所だったと記されている。さぞかし美しかったのだろう。
「でも最近強く思うようになったのは、果たして人を巻き込んでいいのか、ということです」
「自分自身で廃寺跡を守っているならいいんですけど、実際手入れをして守っているのは地元の方々。何十年も住んでいて地元民は愛着があるんですよ。だからこそ、それを外から『こう活用した方がいい』『人を呼びたい』なんて言うことは果たしてどうなんだろうかと。守ってもいない奴が」
子供の墓塔が傷だらけで寂しげに立っています。こんな小さな墓塔にも地元の方が花を供えてくれています。―「薩摩旧跡巡礼」正孝庵跡より
全く目立たない場所にある古寺跡ですが、そこにあるものは全ていいものばかり。そして地元の方々によって美しく維持されています。―「薩摩旧跡巡礼」金剛寺跡より
「消えるものは消える。だからこそ完全に埋もれる前に記録しておきたいっていうのが、今の一番の思い。人を集めてどうこうっていうわけでもなくて、一人でもいいから回って、こんな姿でしたよっていうのを残したい気持ちが一番強くなってきました」
終わりなき薩摩旧跡巡礼の旅
廃仏毀釈で失われた鹿児島の1066の寺。
『三国名勝図会』にも全部の寺が記録されていたわけではない。記述があるのは大体600くらい。土砂崩れや宅地造成などで失われたところもあるから、現存しているのはおそらく500程度。だからすべてを巡るのは難しいが、できる限り探し出したいと言う。
「寺にあった石塔や墓石が田んぼから発掘されることもある。だから細部まで見ていくと、永遠に終わらないですよ。もちろん終わらす気もないですけどね」
何気ない日常の風景の奥に、普段通り過ぎる道端や林の奥に、これだけ豊かな廃寺跡の世界が広がっていた。墓石のデザインや刻まれた文字からは、遠い昔に生きた人たちの息づかいが聞こえてくるようだ。
日々の仕事や生活に流されて、子どもの頃に持っていたようなまっさらな好奇心で物事を見ることは、少しだけ難しくなってきているような気もする。
だからそれを持ち続けられる川田さんは、とても感性が素直な人だと思う。誰が決めたわけでもない、誰かに認められているわけでもない、自分だけの価値基準で輝く宝石の原石を見つけ出し、それを大切に愛でることのできる人だ。
状況が落ち着いたら、久しぶりに奈良に行きたいという。
「奈良の法隆寺は日本の仏教の黎明の地みたいなところ。築1300年くらいの建物が残っているのであれもう一回見たい! 原点に立ち返りたいっていうのはありますね。もう一回訪れて、味わって、初心にかえって。それからまた鹿児島の廃寺跡を巡っていきます」
終わりのない薩摩旧跡巡礼の旅は続いてく。
薩摩旧跡巡礼
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画像提供:川田達也
一部画像撮影:横田ちえ