鹿児島フリーライターのブログ

横田ちえのブログです。

周囲30キロの絶海の小さな孤島を巡る トカラ列島中之島旅行記・中編

前回の記事。


深夜のフェリー便でしかたどり着けない離島へ トカラ列島中之島旅行記・前編 - 鹿児島フリーライターのブログ



今回の旅のテーマを決めていたわけではないけれど、トカラ馬を見ることは大きな目的のひとつだった。


現在日本にいる馬は、ほとんどが西洋種との交配が大きく進み、日本に昔から存在した「日本在来馬」は8種を残すのみである。(北海道和種、木曽馬、野間馬、対州馬御崎馬、トカラ馬宮古馬、与那国馬)ただし、これらの在来馬も西洋種の影響は多少受けているのだとか。


私が普段馬と聞いてイメージするのは、競馬でおなじみのサラブレッドの姿だ。「日本在来馬」はどんな佇まいなのか、実際に見てみたいとずっと思っていた。


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竹の生い茂る狭い道路を抜けて、牧場のある丘の上の高尾地区を目指す。細い道を車で進むと、竹の枝がばちばちと車体をこすった。


中之島の林は、牧場などをつくるために一度草木を刈ってしまうと、もとの林には戻らず完全な竹林になってしまうのだと聞いた。竹の伸びるスピードがすさまじく速いため、他の樹木が育つ余裕がないのだ。原生林のように見える中之島大自然も、人間の暮らしの影響は確実に受けているのだと気づかされる話だった。


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高尾地区。広々とした牧草地帯。


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カラ馬の牧場はオスとメスで場所が分かれている。「男子寮」「女子寮」の表現がかわいい。向こうに見えるのは島で一番標高の高い活火山・御岳だ。


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カラ馬だ! なんだか胸が熱くなった。連なる山々を背景に、雄大な牧場が広がっている。朝の柔らかい光を受けてトカラ馬の栗毛が艶やかだ。躍動する肢体が美しい。


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カラ馬サラブレッドとは違い、どこかどっしりと愛嬌のあるフォルムをしている。か細い足で重い体を支えているサラブレッドとは違って、心持ち足もしっかりしている。安心感と愛らしさのあるフォルムだ。


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途中、メスの方の牧場に猫が侵入した。馬たちはみな一様にテンションが高くなり、じゃれるように猫のいる方向へ駆け出して行った。ちょうど餌を用意していたタイミングだったのに、食欲より好奇心が勝っていることが印象的だった。必ず餌がある安心感もあったのだろうか。無邪気な好奇心が愛らしく思えた。


しかし、ここは決して楽園ではないのだと思わされた。オス馬の牧場では、一匹のオス馬が餌を食べようとするとほかのオス馬に阻止される、といった妨害を受けていた。関係性がうまくいっておらず孤立しているらしい。


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「餌はいっぱいあって足りているのに……」とつぶやく管理人さん。


牧場には南国らしい椰子の木が揺れ、遠くに見える山々は美しい。温暖な気候で、必要な環境や食料は揃って満ち足りたようなこの牧場でも、生きていく上の困難や緊張から逃れられるわけではない。


妨害を受けながら隙を見てその馬に餌を運んでいる管理人さんの姿が、救いのように印象に残った。


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牧場を後にして、島をあちこち巡った。島には野生のヤギがたくさんいて、車を走らせていると横の茂みがガサガサ動く。生後1~2日とみられるヤギの赤ちゃんにも出会った。草食動物であるヤギは外敵から逃げられるよう、生まれて15分〜1時間くらいで歩けるようになる。


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御池(おいけ)。島の人の間では「底なし沼」と呼ばれている。鬱蒼とした緑に囲まれて、怖いくらい静かな場所だった。


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中之島港の反対側にある大木崎。向こうに見える島影は口之島だ。陸続きの土地に暮らしている私にとって、四方をすっかり海に囲まれて、海の向こうに見えるのは近くの島の影だけ、というのがなんとも不思議な感じがした。歩いて行けるのは周囲30キロのこの小さな島の範囲だけ。もちろん車や電車に乗って、ふらっと遠くへ行くこともできない。


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十島村歴史民俗資料館で見た丸木舟。


今はフェリーで本土と行き来しているが、昔の主な移動手段は一本の木をくりぬいて作られる丸木舟だった。海に囲まれたトカラの人々は丸木舟で島々を行き交い、文化を運び、魚を獲り、命をつないできた。


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浜を見ればペットボトルやプラスチックの欠片など漂着物だらけだった。中之島に限らず、鹿児島各地の浜でも見かける光景だ。


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中之島で聞いた話で印象的だったのが「ダツ漁」だ。ダツはキリのように鋭いくちばしを持った、長さ1メートル程度の細長い魚。泳ぐスピードがとても速く、猛スピードで人に向かって突進することもあるそう。そのため、ダツ漁の最中、勢いよく飛び出してきたダツが胸部にささって亡くなった人もいると。


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集落から少し離れた山奥にあった、かつて島民が住んでいた廃屋を見た。コンクリートの壁を残して解体されており、勢いよく生い茂る草木に侵食されている。入り口さえも覆い隠されていて、教えてもらわないと気が付かなかった。人が住まなくなると、家の跡地はこんなにあっという間に自然に飲み込まれるのかと感慨深かった。


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人がいなくなったこのエリアで、巨大にそびえるカジュマルが印象的だった。


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どこまでも続いていくような細い道はヤルセ灯台へと続いている。この日はあいにくの曇りだったが、晴れていたら青空に白い灯台がさぞかし映えるのだろうと思う。


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角とヒゲの立派なヤギに会った。


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灯台の先は断崖絶壁。こういう崖を見るとどうしても2時間サスペンスを連想してしまう……。


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最後に、中之島で一番標高の高い山、御岳の中腹まで車で行った。


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こうして見晴らしのいい場所から島を見ると、断崖絶壁に囲まれた土地だということがよくわかる。火山島のため地形は急峻。平地は少なめで、農業用地を確保するのにも厳しい苦労があったはずだ。


周囲30キロの小さな島だけど、1950年代に島の人口は1500を超えるほど賑わっていた時代があると聞いた。港周辺は多くの人が行き交い、遊郭もできるほどの賑わいだったという。


中之島を含む十島村第二次世界大戦後に、口之島の北緯30度線以南がアメリカ統治下に置かれ、1952年に本土復帰している。アメリカ統治下では本土と表立って行き来ができなかったので「密航」が多く行われた。


平成29年10月31日の調査では、中之島の人口は164人と記されている。


(後編につづく)

貝殻の中から聞こえてくる美しく力強く不思議な自然 古川美年生さんコレクションの魅力と取り扱い文化施設一覧

半生をかけて貝殻の収集・研究に没頭した古川美年生さんという方がいます。「東洋経済オンライン」に寄稿した記事でその生涯を追いました。


toyokeizai.net


記事の中ではあまり貝殻の紹介ができなかったので、こちらのブログで貝殻の魅力を紹介したいと思います。古川さんの標本を訪ね歩いて取材する中で、私は「こんなにも鮮やかな色、ユニークな形の貝殻が海の中で生み出されている」ということに感動を覚えました。


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また、古川さんの標本が見られる文化施設の情報も記事の最後にまとめてあります。もしこの記事を読んで貝殻に惹かれるものを感じたら、ぜひ古川さんの標本を見に行ってみてください。


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▲小学校に標本とともに寄贈した古川さんの言葉。“美しい自然、ふしぎな自然、力強い自然が、貝殻の中から聞こえてきます。”


美しい色彩・形・つやで収集家から愛されている「タカラガイ


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多種多様な模様につや、色彩豊かな美しい殻に覆われたタカラガイ。貝殻の花形として収集家から愛されています。貴重な深海産タカラガイの中には一個十万円を越える高価なものもあるのだとか。


日本では沖縄や奄美大島などの暖かい海の珊瑚礁に多く生息しています。海水に溶け込んでいるカルシウムを貝が取り入れて、外とう膜によってこの美しい殻は作られています。


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▲ジャノメタカラガイ


まるで蛇の目のような模様。自然の造形の巧みさに驚嘆せずにはいられません。


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▲ハチジョウタカラガイ


とりわけつやと光沢が美しいハチジョウタカラガイ。黒と金のコントラストがまるで蒔絵のようです。


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▲キイロタカラガイ


キイロタカラガイは昔、中国やアフリカ、インド、太平洋諸島などで通貨として使われていました。当時の墓からこれらの貝殻が出てくるのだとか。貝殻から見える人類の文化も興味深いですね。


桃色が可憐な「サクラガイ」


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古川さんは、サクラガイが特に好きだったらしいです。菱刈郷土資料館にはたくさんのサクラガイを収めた絵画のような標本の展示があります。生涯で一体どれだけの数のサクラガイを集めたのでしょうか。


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サクラガイには多くの種類があるようで、どれも美しい桃色が独自の存在感を放っています。サクラガイって、海岸で見つけると宝物を見つけたみたいにときめきますよね。子どもの頃夢中で探したのを思い出しました。


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▲ヒガンザクラガイ


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エドザクラガイ


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▲カバザクラガイ


さまざまな名前のサクラガイが標本に収められていました。海のものである貝殻に、山里に咲く様々な桜の名前が付けられることに何だかロマンを感じます。


驚くほど小さくて細かい貝殻たち


「どうしたらこんな細かい貝殻を見つけられるのだろう」と驚くような微小な貝殻たち。古川さんの標本にはそんな貝殻がたくさん収められています。砂浜に張り付くようにして探したのでしょう。


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▲コメツブガイ


大きさ3~5mm程度のコメツブガイ。並々ならぬ情熱がないと、こんな見つけることはできないと思いました。


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▲ササノツユガイ


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▲ウキヅツガイ


ウキヅツガイは筒の形をしています。すごく薄くて壊れやすく、大きさもわずか6~7mmくらい。傷がつくとすりガラスのように白っぽくなる貝殻で、このように透明感が残っているのは採取や扱い方の方法がすばらしいことの証拠ですね。


ユニークな名前の貝殻たち


地球上のありとあらゆる植物や動物、物事に共通点を見出して名付けられた貝殻も多く、その形と名前を見ているだけでも楽しいです。どんな気持ちで名前を付けたのかな、と想像が膨らみますね。


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▲ツバメガイ


まさにツバメのような形をしています。かわいいですね。


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▲タケノコガイ


たしかにタケノコっぽいかもしれません……!


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▲テンシノツバサガイ


流れるような曲線に羽根のような模様の、この真っ白な貝殻に「テンシノツバサガイ」という美しい名前が付けられています。英語名の「angel wing」を訳したものです。


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▲カゲロウガイ


この透明感のある貝殻に、儚い命のカゲロウを重ねたのでしょうか。


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▲クチベニガイ


貝殻の内側が薄いピンク色をしています。その名前の通り、口紅を塗ったような貝殻です。この標本は淡い色合いですが、もっと鮮やかな赤色をしたクチベニガイもあるようです。


太古の昔から生き延びてきた「ハマグリ」


私たちが普段何気なく食べているおなじみのハマグリ。古川さんの『貝の不思議』によると、ハマグリは縄文時代貝塚の中からも多数見つかっており、太古の昔から人類にとって貴重な食糧でした。内湾性の河口に近い砂泥地に生息し、堆積した食べ物や海流で運ばれてくるプランクトンを食料にしています。


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海流の荒れや外敵から身を守るため、安全な砂の中で生活できるように殻やからだのつくりを変化させてきたハマグリは、太古の昔から多くの生物が絶滅する中で、環境にうまく適応して何億年も生き延びてきた生物です。


そんなことを知るとハマグリに対する見え方が変わります。しかし、古川さんはこんな風に書き残しています。

今日、潮干狩りをしてもハマグリ・アサリがほとんど見つからないのは寂しい限りです
                      -月刊シルバー・エイジより


何億年と生き延びてきた生物が減りつつある現代、昨今の地球規模の環境変化のスピードがとてつもない速さなのだと感じられます。


【参考】古川さんのコレクションが見られる施設


菱刈郷土資料館(伊佐市菱刈ふるさといきがいセンター2階)


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古川さんの標本が一番たくさん見られるのはこの施設です。1600種3300個の貝殻コレクションがずらりと並んでいます。


住  所:鹿児島県伊佐市菱刈前目2019番地2
開館時間:火曜~土曜 9:00~18:00
      日曜    9:00~17:00
電話番号:0995-26-3000
休館日:月曜休館(月曜が祝日の場合は開館で、火曜が休館)
料金:入場無料



鹿児島県立博物館

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1269種の貝殻コレクションが鹿児島県立博物館3階の学習情報室の棚に収蔵されています。棚ごとに番号が振られており、貝殻の名前から検索できるようになっています。古川さんは定年後、ここで学芸指導員として働いていました。


住所:鹿児島市城山町1番1号
開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
電話番号:099-223-6050
休館日:月曜(祝日の場合は翌日)、毎25日(土日開館)、年末年始(12/31~1/2)
料金:入場無料 ※プラネタリウムは有料
https://www.pref.kagoshima.jp/hakubutsukan/



霧島市立隼人図書館


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霧島市立隼人図書館の入り口に8つのショーケースが展示されています。私が古川さんの標本に出会ったのは、実はここです。


住所:霧島市隼人町内山田1丁目14-76
開館時間:平日10:00~19:00、土日祝9:00~17:00
電話番号:099-223-6050
休館日:月曜(夏休み中は開館)、年末年始(12/29~1/3)、特別整理期間12月中に10日間
料金:入場無料 
https://www.lib-kirishima.jp/contents/?page_id=44


伊佐市立大口図書館


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535種886個の貝殻コレクションが展示されています。また、大口ふれあいセンター4階には、大口歴史民俗鉄道記念資料館もあります。


住所:伊佐市大口里2845-2(大口ふれあいセンター2階)
開館時間:9:00~18:00、日祝9:00~17:00
電話番号:0995-22-0417
休館日:月曜(祝日の場合は翌日)、年末年始(12/28~1/4)
料金:入場無料 
https://www.pref.kagoshima.jp/suisuinavi/24999.html

海と崖の間「秘境駅」近くで 45年間営業を続けてきた竜ヶ水そば 店主小浜さんの人生ドラマ

特異なロケーションにある店が気になって仕方がない。「どうしてここに?」と思われるような変わった場所に店を構えながら、当たり前に客が出入りし、長年商売が成り立っている店がある。


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そんな店のひとつが鹿児島県鹿児島市にある「竜ヶ水そば」だ。背後は切り立った崖が10キロも続き、眼前には錦江湾桜島を望む。国道10号とJRが、崖と海の間の細い海岸線に沿って走っている。


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まるで陸の孤島のような隔絶された雰囲気だ。周辺の人家はわずかに点在するだけで、近くの竜ヶ水駅無人である。鹿児島市の2016年統計「鉄道の乗降客数」によると、年間1000人程度の利用しかない。秘境駅とさえ呼ばれている。


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竜ヶ水駅。「海の見える駅」の別名がある美しい景色だ。


しかしこの海沿いは、県の東側から鹿児島市街地へと繋がる主要道路であるため、車の往来は極めて多い。朝夕の通勤時間帯には渋滞になる。そうして多くの人たちが行き交う一方で、あくまでも通り道であるため「竜ヶ水そば」を横目に過ぎる人がほとんどだ。


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▲上空から見ると、竜ヶ水そば周辺は、都市と都市の間にあることがよくわかる


この地で、店主は一体どんな風景を見てきたのだろう? 店の佇まいからしてその歴史は古そうだ。話を聞こうと期待を胸に、蕎麦屋の暖簾をくぐった。


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うまさの決め手は出汁と眺望にあり


昔懐かしい昭和の趣を感じる店内には、カウンター6席、テーブル1席、座敷4席がある。私は座敷に腰を下ろした。


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メニューはそばとうどんがメイン。お腹が空いていたらいなり寿司も合わせて頼むのがおすすめだ。出汁をたっぷり含んだジューシーな揚げがたまらない。


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▲肉そば600円を注文


注文して運ばれてきた肉そばには、なんとうどんまで入っていた! 「あったから入れといたよ」とのこと。写真では見えづらいが奥の方にそばもしっかり入っている。そばは十割で太くて短めのいわゆる田舎そば。2年前くらいに訪問した時は漬物がたくさん出てきた。そんな風に+αがいろいろ出てくる店だ。


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透き通った出汁は鹿児島らしく甘く、でも決してくどくはない。澄んだ味わいの出汁に甘辛く炊いた肉や刻みネギがよく合う。そこに、ツユをたっぷり吸ってふくらんだ天ぷらの衣がいい具合にほどけてくる。スルスルとお腹に入る。どのうどん、そばにもかならずさつま揚げをのせるのが店のこだわりだ。


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食べている合間にふと顔を上げれば、桜島が見える。この眺望に、この味、うまくないわけがない。


学校閉鎖、8・6水害 人が減っていく


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お腹が満たされたところで、店主の小浜正光(77)さんにお話を伺った。


「このあたりは昔もっと人がいたの。花倉(かくら)、三船、竜ヶ水で250世帯くらい。近くに龍水小学校があってね。自分の頃は300人くらい通っとった。でも昭和45(1970)年に廃校になってね。学校がなくなると若い人が出ていくね」


さらに、忘れもしない平成5(1993)年の8月6日に発生した集中豪雨、通称「8・6水害」。竜ヶ水ではがけ崩れや土石流が相次いで発生し、道路や鉄道が寸断され完全に孤立した。取り残された人々は、桜島フェリーや漁船、海上保安庁による救援などで海側から救出される。住宅や道路の被害は大きく、避難した人の多くは自宅に戻らず市営住宅に移り住むなどして、多くの人々が去っていった。


この日小浜さんは奥さんと共に宅配便の手配で、16時ごろに店を出ていたため難を逃れた。翌日、約5キロの道のりを歩いて店の様子を確認しに行ったという。


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▲堤防の高さまで土砂と水で埋まっている(写真撮影:小浜正光さん)


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▲真ん中に竜ヶ水そばの店舗がある(写真撮影:小浜正光さん)


「堤防伝いに進んで、ここに来て店が見えた時はあった!っちゅって叫んだね」


店の前にあった飲み物の自動販売機は流され、店内には土砂が大量に入り込んでいたが、なんとか持ちこたえてくれていた。それから4カ月かけて土砂を出し、修理して復活へこぎつけた。


「通りがかるみんながよ、ジュ-スくれたり気にしてくれて」


戸籍がモノをいう


8・6水害前の小浜さんの人生も波乱に満ちていた。水害から遡ること50年、昭和18(1943)年に小浜さんは生まれた。国鉄職員として赴任してきた父と鹿児島の母の元に誕生したが、父には郷里に婚約者がいたため2人が結婚することはなかった。小浜さんは実母の兄の戸籍に入る。時代は戦争の最中だった。


「空襲の怖さとあの音はなんちゅうかな、体に染み込んでいる。夜中にぶわーんって通るの。怖い目におうた人は一生忘れないね」


わずか2歳頃の記憶でさえ、熱にうなされると悪夢として思いだされたという。戦争の傷跡は深い。戦時中赤十字で働いた養父は、そこで酒の代わりにメチルアルコールを飲む習慣をつけてしまい、体を悪くてしてわずか36歳の若さで亡くなった。小浜さんが5歳ぐらいの頃だ。


小浜さんは祖母に育てられた大のばあちゃん子。しかし疎外感を感じたこともあった。


「葬式とかで親族が集合した時に写真撮影をすると、戸籍通りに並ぶの。そうすると俺はどこにも入れないの。蚊帳の外。2回味わった。戸籍がモノを言うね。でもそんな風に揉まれているからか、なんちゅうかね、逆に人を疑うことも、憎むこともしないよ」


かつては便利だった竜ヶ水


少年時代は、竜ヶ水の大自然の中で力いっぱい遊んだ。


「道路から海に飛び込んで、ビナとか食べられる貝を採ってね。ほじって炒めたらそれでおかず。ばあちゃんがしてくれよって、そんなんばっか食べてた」


当時の竜ヶ水は今のような交通量でも道路でもなく、子どもたちがのどかに遊べる場所だった。海も青く澄んで美しかったという。



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「ここに来たら、まずお金はなくても暮らせるっちゅうのがあった。なんも不自由せんち。この集落の祖先は崖上の吉野大地から降りてきた。便利な場所だから。海もあるし船で移動できる。そんころは船よ。桜島鹿児島市街地へも船で行ったり来たり」


集落の成り立ちが便利さにあったことに驚いた。私は竜ヶ水を崖と海に囲まれ、梅雨時は土砂崩れの恐れのある、住むには不便な土地と思っていたからだ。


しかし、時代を少し遡れば様相は変わってくる。今のように自家用車は普及しておらず、当時の自給自足に近い暮らしを考えると、便利さの基準は全く違う。標高約300メートルの崖上の吉野大地よりも、海の幸や船でのアクセスがある竜ヶ水は便利だったのだ。


私はこのことに深い衝撃と感慨を覚えずにはいられなかった。土地の見え方がまったく変わってきた。


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竜ヶ水駅に展示されている絵。赤丸の部分が竜ヶ水と吉野大地を結ぶ道だ


当時は崖上標高300メートルの吉野大地と竜ヶ水を結ぶ道が、急斜面の山肌を縫うように続き、人々は馬に荷をのせて行き来していた。その道の跡は8・6水害の影響もあり、現在はほぼ通れなくなっている。


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身一つで切り開いてきた自分の居場所


中学を卒業した小浜さんは薩摩人形を作る工房で働く。5年間の奉公で祖母に小さな家を建ててあげることができた。その後、丸屋デパート(現:マルヤガーデンズ)の板場、水道工事、日野自動車内の社員食堂運営を経て昭和50(1975)年、32歳の時に独立して竜ヶ水そばを構えた。


「海から石を上げて基礎を作って、水道の配管は全部自分でして。中学しか出とらんけど、どこが壊れても全部自分でできるの」


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▲創業当時の写真


看板も自作。道路に看板を建てるのは違法だったので、トラックの上にのせて店の前に停めて人目を引くよう工夫した。「これならひっかからん。法の盲点や」と小浜さんは愛嬌たっぷりに笑う。


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▲そばをのせる台も手作りだ。「器用貧乏っちゅうんだよ」と小浜さん


メニューをうどん、そば中心にしたのは、原価の安さから十分な利益が見込めると考えたから。麺の打ち方は独学で学び、出汁の引き方は丸屋デパートでの板場の経験が役に立ったという。


その間に丸屋デパートで同僚だった奥さんと結婚し、長女、次女が生まれていた。当時は店舗の裏に6畳一間の小さな自宅があり、奥さんと2人、店に子育てにと奮闘した。そして時代はバブル景気へ。


「よか時代やった。なんぼ使っても入ってくる時代で。天文館からお客さんがたくさん食べにくるの。朝は8時半に店を開けて、夜中の2時まで営業しよった。垂水の方からは、ハマチの養殖しとる若者が、車で天文館までナンパしに行った夜遊びの帰り道に寄ってね。遊びに行く人ばかりやった」


店で稼いだお金で隣の姶良市に新しく家を建て、奥さんと共に1男3女を育て上げた。今はローンも土地を買ったお金も全部返して気が楽だと言う。


「今は健康が一番。生まれてすぐ亡くなる子もいるが。ここまで生きたんだから、儲けものなのよ」


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▲店内に孫の書いた絵が飾ってあった。「頭のよか子でね」と小浜さんは目を細める


令和2(2020)年の今年、創業から45周年。長年通っている常連さんも多い。小浜さんと40年来の付き合いの西堂路(にしどうじ)さんは店の魅力を「なんだろうね。奥さんもご主人もすごく人がいいやんか。それでずっと通っているね」と話す。


何度か店に通う中で、居合わせたお客さんの多くはカウンター席に座っていた。桜島を望む眺望抜群の座敷がありながら、皆そこにはあまり座らない。小浜さんと言葉を交わすことを楽しみに訪れているのだと思う。私も取材を通してカウンターに座るようになった。


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▲この時は山かけそば600円を注文。横のそうめんはまたしてもサービスだ。常連さんにも振舞っていた


かつて親族の写真撮影では蚊帳の外に置かれた小浜さん。今や「竜ヶ水そば」では、小浜さんを真ん中に多くの人が集まる。庇護してくれる大人が多かったとはいえない幼少時代を送った小浜さんが、身一つで切り開いてきた自分の居場所だ。


会いたい人と写真を撮っておくことよ


しかし45年という月日は長い。常連客の中には鬼籍に入った方もおり、昔からの顔なじみは減ってきた。


「だからやっぱり会いたい人とは会って写真を撮っておくことよ。会えなくなるよ。どんどん店も人もいなくなる」


跡を継ぐ人はいないから、「竜ヶ水そば」は小浜さんの代で終わる。そして、そう遠くない未来に、竜ヶ水周辺に住む人はいなくなるのかもしれない。そうすると竜ヶ水駅も廃駅になり、この地域の様相はさらに変わっていく。


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かつては海の幸と船でのアクセスに恵まれ、暮らしやすかったこの土地。時代の変化と共に、便利な場所は変わり、人は移りゆく。それは、少しの寂しさはありながらも、人が生きている限り変化するのと同じようにごく自然なことで、決して悲しいだけのことではないのだと思えた。


一杯のそばから、竜ヶ水という特殊な地域の歴史と店主の生きざまに触れることができ、不思議な余韻に包まれている。


「今度は秋においで。寒さがバンときたら、香りと甘みのある蕎麦粉が取れる。一番おいしいのは10月すぎかな」


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(取材・文/横田ちえ)