鹿児島フリーライターのブログ

横田ちえのブログです。

海と崖の間「秘境駅」近くで 45年間営業を続けてきた竜ヶ水そば 店主小浜さんの人生ドラマ

特異なロケーションにある店が気になって仕方がない。「どうしてここに?」と思われるような変わった場所に店を構えながら、当たり前に客が出入りし、長年商売が成り立っている店がある。


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そんな店のひとつが鹿児島県鹿児島市にある「竜ヶ水そば」だ。背後は切り立った崖が10キロも続き、眼前には錦江湾桜島を望む。国道10号とJRが、崖と海の間の細い海岸線に沿って走っている。


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まるで陸の孤島のような隔絶された雰囲気だ。周辺の人家はわずかに点在するだけで、近くの竜ヶ水駅無人である。鹿児島市の2016年統計「鉄道の乗降客数」によると、年間1000人程度の利用しかない。秘境駅とさえ呼ばれている。


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竜ヶ水駅。「海の見える駅」の別名がある美しい景色だ。


しかしこの海沿いは、県の東側から鹿児島市街地へと繋がる主要道路であるため、車の往来は極めて多い。朝夕の通勤時間帯には渋滞になる。そうして多くの人たちが行き交う一方で、あくまでも通り道であるため「竜ヶ水そば」を横目に過ぎる人がほとんどだ。


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▲上空から見ると、竜ヶ水そば周辺は、都市と都市の間にあることがよくわかる


この地で、店主は一体どんな風景を見てきたのだろう? 店の佇まいからしてその歴史は古そうだ。話を聞こうと期待を胸に、蕎麦屋の暖簾をくぐった。


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うまさの決め手は出汁と眺望にあり


昔懐かしい昭和の趣を感じる店内には、カウンター6席、テーブル1席、座敷4席がある。私は座敷に腰を下ろした。


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メニューはそばとうどんがメイン。お腹が空いていたらいなり寿司も合わせて頼むのがおすすめだ。出汁をたっぷり含んだジューシーな揚げがたまらない。


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▲肉そば600円を注文


注文して運ばれてきた肉そばには、なんとうどんまで入っていた! 「あったから入れといたよ」とのこと。写真では見えづらいが奥の方にそばもしっかり入っている。そばは十割で太くて短めのいわゆる田舎そば。2年前くらいに訪問した時は漬物がたくさん出てきた。そんな風に+αがいろいろ出てくる店だ。


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透き通った出汁は鹿児島らしく甘く、でも決してくどくはない。澄んだ味わいの出汁に甘辛く炊いた肉や刻みネギがよく合う。そこに、ツユをたっぷり吸ってふくらんだ天ぷらの衣がいい具合にほどけてくる。スルスルとお腹に入る。どのうどん、そばにもかならずさつま揚げをのせるのが店のこだわりだ。


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食べている合間にふと顔を上げれば、桜島が見える。この眺望に、この味、うまくないわけがない。


学校閉鎖、8・6水害 人が減っていく


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お腹が満たされたところで、店主の小浜正光(77)さんにお話を伺った。


「このあたりは昔もっと人がいたの。花倉(かくら)、三船、竜ヶ水で250世帯くらい。近くに龍水小学校があってね。自分の頃は300人くらい通っとった。でも昭和45(1970)年に廃校になってね。学校がなくなると若い人が出ていくね」


さらに、忘れもしない平成5(1993)年の8月6日に発生した集中豪雨、通称「8・6水害」。竜ヶ水ではがけ崩れや土石流が相次いで発生し、道路や鉄道が寸断され完全に孤立した。取り残された人々は、桜島フェリーや漁船、海上保安庁による救援などで海側から救出される。住宅や道路の被害は大きく、避難した人の多くは自宅に戻らず市営住宅に移り住むなどして、多くの人々が去っていった。


この日小浜さんは奥さんと共に宅配便の手配で、16時ごろに店を出ていたため難を逃れた。翌日、約5キロの道のりを歩いて店の様子を確認しに行ったという。


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▲堤防の高さまで土砂と水で埋まっている(写真撮影:小浜正光さん)


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▲真ん中に竜ヶ水そばの店舗がある(写真撮影:小浜正光さん)


「堤防伝いに進んで、ここに来て店が見えた時はあった!っちゅって叫んだね」


店の前にあった飲み物の自動販売機は流され、店内には土砂が大量に入り込んでいたが、なんとか持ちこたえてくれていた。それから4カ月かけて土砂を出し、修理して復活へこぎつけた。


「通りがかるみんながよ、ジュ-スくれたり気にしてくれて」


戸籍がモノをいう


8・6水害前の小浜さんの人生も波乱に満ちていた。水害から遡ること50年、昭和18(1943)年に小浜さんは生まれた。国鉄職員として赴任してきた父と鹿児島の母の元に誕生したが、父には郷里に婚約者がいたため2人が結婚することはなかった。小浜さんは実母の兄の戸籍に入る。時代は戦争の最中だった。


「空襲の怖さとあの音はなんちゅうかな、体に染み込んでいる。夜中にぶわーんって通るの。怖い目におうた人は一生忘れないね」


わずか2歳頃の記憶でさえ、熱にうなされると悪夢として思いだされたという。戦争の傷跡は深い。戦時中赤十字で働いた養父は、そこで酒の代わりにメチルアルコールを飲む習慣をつけてしまい、体を悪くてしてわずか36歳の若さで亡くなった。小浜さんが5歳ぐらいの頃だ。


小浜さんは祖母に育てられた大のばあちゃん子。しかし疎外感を感じたこともあった。


「葬式とかで親族が集合した時に写真撮影をすると、戸籍通りに並ぶの。そうすると俺はどこにも入れないの。蚊帳の外。2回味わった。戸籍がモノを言うね。でもそんな風に揉まれているからか、なんちゅうかね、逆に人を疑うことも、憎むこともしないよ」


かつては便利だった竜ヶ水


少年時代は、竜ヶ水の大自然の中で力いっぱい遊んだ。


「道路から海に飛び込んで、ビナとか食べられる貝を採ってね。ほじって炒めたらそれでおかず。ばあちゃんがしてくれよって、そんなんばっか食べてた」


当時の竜ヶ水は今のような交通量でも道路でもなく、子どもたちがのどかに遊べる場所だった。海も青く澄んで美しかったという。



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「ここに来たら、まずお金はなくても暮らせるっちゅうのがあった。なんも不自由せんち。この集落の祖先は崖上の吉野大地から降りてきた。便利な場所だから。海もあるし船で移動できる。そんころは船よ。桜島鹿児島市街地へも船で行ったり来たり」


集落の成り立ちが便利さにあったことに驚いた。私は竜ヶ水を崖と海に囲まれ、梅雨時は土砂崩れの恐れのある、住むには不便な土地と思っていたからだ。


しかし、時代を少し遡れば様相は変わってくる。今のように自家用車は普及しておらず、当時の自給自足に近い暮らしを考えると、便利さの基準は全く違う。標高約300メートルの崖上の吉野大地よりも、海の幸や船でのアクセスがある竜ヶ水は便利だったのだ。


私はこのことに深い衝撃と感慨を覚えずにはいられなかった。土地の見え方がまったく変わってきた。


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竜ヶ水駅に展示されている絵。赤丸の部分が竜ヶ水と吉野大地を結ぶ道だ


当時は崖上標高300メートルの吉野大地と竜ヶ水を結ぶ道が、急斜面の山肌を縫うように続き、人々は馬に荷をのせて行き来していた。その道の跡は8・6水害の影響もあり、現在はほぼ通れなくなっている。


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身一つで切り開いてきた自分の居場所


中学を卒業した小浜さんは薩摩人形を作る工房で働く。5年間の奉公で祖母に小さな家を建ててあげることができた。その後、丸屋デパート(現:マルヤガーデンズ)の板場、水道工事、日野自動車内の社員食堂運営を経て昭和50(1975)年、32歳の時に独立して竜ヶ水そばを構えた。


「海から石を上げて基礎を作って、水道の配管は全部自分でして。中学しか出とらんけど、どこが壊れても全部自分でできるの」


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▲創業当時の写真


看板も自作。道路に看板を建てるのは違法だったので、トラックの上にのせて店の前に停めて人目を引くよう工夫した。「これならひっかからん。法の盲点や」と小浜さんは愛嬌たっぷりに笑う。


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▲そばをのせる台も手作りだ。「器用貧乏っちゅうんだよ」と小浜さん


メニューをうどん、そば中心にしたのは、原価の安さから十分な利益が見込めると考えたから。麺の打ち方は独学で学び、出汁の引き方は丸屋デパートでの板場の経験が役に立ったという。


その間に丸屋デパートで同僚だった奥さんと結婚し、長女、次女が生まれていた。当時は店舗の裏に6畳一間の小さな自宅があり、奥さんと2人、店に子育てにと奮闘した。そして時代はバブル景気へ。


「よか時代やった。なんぼ使っても入ってくる時代で。天文館からお客さんがたくさん食べにくるの。朝は8時半に店を開けて、夜中の2時まで営業しよった。垂水の方からは、ハマチの養殖しとる若者が、車で天文館までナンパしに行った夜遊びの帰り道に寄ってね。遊びに行く人ばかりやった」


店で稼いだお金で隣の姶良市に新しく家を建て、奥さんと共に1男3女を育て上げた。今はローンも土地を買ったお金も全部返して気が楽だと言う。


「今は健康が一番。生まれてすぐ亡くなる子もいるが。ここまで生きたんだから、儲けものなのよ」


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▲店内に孫の書いた絵が飾ってあった。「頭のよか子でね」と小浜さんは目を細める


令和2(2020)年の今年、創業から45周年。長年通っている常連さんも多い。小浜さんと40年来の付き合いの西堂路(にしどうじ)さんは店の魅力を「なんだろうね。奥さんもご主人もすごく人がいいやんか。それでずっと通っているね」と話す。


何度か店に通う中で、居合わせたお客さんの多くはカウンター席に座っていた。桜島を望む眺望抜群の座敷がありながら、皆そこにはあまり座らない。小浜さんと言葉を交わすことを楽しみに訪れているのだと思う。私も取材を通してカウンターに座るようになった。


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▲この時は山かけそば600円を注文。横のそうめんはまたしてもサービスだ。常連さんにも振舞っていた


かつて親族の写真撮影では蚊帳の外に置かれた小浜さん。今や「竜ヶ水そば」では、小浜さんを真ん中に多くの人が集まる。庇護してくれる大人が多かったとはいえない幼少時代を送った小浜さんが、身一つで切り開いてきた自分の居場所だ。


会いたい人と写真を撮っておくことよ


しかし45年という月日は長い。常連客の中には鬼籍に入った方もおり、昔からの顔なじみは減ってきた。


「だからやっぱり会いたい人とは会って写真を撮っておくことよ。会えなくなるよ。どんどん店も人もいなくなる」


跡を継ぐ人はいないから、「竜ヶ水そば」は小浜さんの代で終わる。そして、そう遠くない未来に、竜ヶ水周辺に住む人はいなくなるのかもしれない。そうすると竜ヶ水駅も廃駅になり、この地域の様相はさらに変わっていく。


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かつては海の幸と船でのアクセスに恵まれ、暮らしやすかったこの土地。時代の変化と共に、便利な場所は変わり、人は移りゆく。それは、少しの寂しさはありながらも、人が生きている限り変化するのと同じようにごく自然なことで、決して悲しいだけのことではないのだと思えた。


一杯のそばから、竜ヶ水という特殊な地域の歴史と店主の生きざまに触れることができ、不思議な余韻に包まれている。


「今度は秋においで。寒さがバンときたら、香りと甘みのある蕎麦粉が取れる。一番おいしいのは10月すぎかな」


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(取材・文/横田ちえ)